31日(土) 大宮ソニックシティで開かれた「埼玉県JICAボランティアによる青年海外協力隊50周年記念活動報告会」へ。
与野にあった中東ミニ博物館の館長・故大野正雄先生が20年前に設立された「埼玉国際青年を育てる会」からお誘いいただいたもの。
大野先生が旅立たれて、もう5年経ってしまいましたが、中東ミニ博物館の常連仲間の方たちとの絆は続いていて、この日も、報告会の前に、まずはソニックシティ近くにある「シュルー」でイラン料理を楽しみました。先生ご存命のときに、20名位で会食したこともある懐かしい場所です。
オーナーシェフのイラン人KAMIさんは、イラン・イラク戦争の時に27ヶ月徴兵され、その後、1991年に来日。10年ほど前に「シュルー」を開店。今では上の階にダンススタジオもあって、夜にはベリーダンスのショーも。
昨日は、定番の煮込み料理ゴルメ・サブジ−、ゼレシュク・ポロー(酸味のある赤い実の入ったピラフ)にチキンの乗ったもの、ボラニ(ヨーグルトにほうれん草を和えたもの)に、KAMIさんオリジナルのペルシア風オムレツとチーズのドルメをシェアしていただきました。 どれも美味しかった〜! (セットメニューもありますが、できれば数人でいくのがお奨め)
肝心の報告会にはぎりぎりに飛び込み。3つの部屋に分かれていて、私が選んだのは、教育・人的資源分野。ガーナ、マーシャル諸島、サモアに派遣されていた方たちからの活動報告を聞きました。若い方たちの志の高さと共に、肌で感じたそれぞれの国情を知ることができました。
マーシャルに派遣されていた大澤百合さんが、冒頭に「マーシャルの場所をご存知の方?」と問われ、手を挙げたのは私一人。「一人いればいいほうです」と大澤さん。マーシャルと聞いて私の頭に真っ先に思い浮かぶのは、ビキニ環礁での水爆実験。大澤さんが赴任中に、1954年の水爆実験から60周年を迎え、福島の学生さんたちも記念行事に駆けつけたとのこと。日本に対して、同じ被爆国としての親近感を持ち、反米の思いも強いそうです。同じマーシャル国民でも、被爆認定された人たちはアメリカから手厚い援助を受けて、かなりいい暮らしぶりで、アメリカへの思いには温度差があるとのこと。映画、『放射線を浴びたX年後』を観ても、水爆実験の影響は広範囲にわたっているのに、被爆認定を受けている人たちが狭い範囲に限られているのは解せません。
マーシャルは、日本の委任統治時代、日本語教育が行われていたので、今も言葉の中に残っている日本語が結構あるとのこと。その中に、「バカヤロー」が入っているのは悲しい歴史です。日系の方の名字には、「桃太郎」さんや「金太郎」さんも。祖父の名前を名字にする習慣があるからだそう。なんだか楽しいですね。
マーシャルの映画事情を伺ってみたら、アメリカ帰りの青年が中心になって映画製作も行われているそうです。映画館は残念ながらつぶれてしまったけれど、ホームシアターで楽しむほか、参加費1ドルの自主上映会などもよく開かれているそうです。
マーシャル諸島の国旗を掲げる大澤さん
青は太平洋、オレンジは勇気、白は平和。オレンジと白の斜線は未来に向けて国の発展。太陽の24の光は自治体の数。長い4本の光は十字架。
サモアに派遣されていた加藤康宏さんは、緑のアロハシャツで登場。教師の制服で、月水金は緑と決められていたそうです。サモアと聞いて思い出すのが、去年観た映画『ネクスト・ゴール! 世界最弱のサッカー代表チーム 0対31からの挑戦』。映画はアメリカ領サモアが舞台でしたが、文化的には同じとのこと。サモアの人たちが好きなのは、歌と踊りとラグビー。サッカーはあまり人気がないのだそうです。そんな中でサッカーを頑張っている人たちの映画だったと知りました。
報告会が終って、お仲間と与野に移動し、大野先生のお墓参りをして、お馴染みの居酒屋へ。 中東ミニ博物館の懇親会の伝統、1分間スピーチの折に、『KANO〜1931海の向こうの甲子園〜』を紹介したら、80歳を越えた方から、「僕が小さい頃、埼玉代表とKANOが闘ったことがあるので、よく覚えてる」と言われました。映画のチームは1931年でしたが、それ以降も出場しているのです。思えば戦前は、台湾だけでなく、朝鮮や満州の代表も甲子園に出場したのですね・・・
いろいろと学びの多い一日でした。