4月28日、根津神社で見頃のツツジを楽しんだあと、東京大学東洋文化研究所での中東映画研究会へ。
2013年6月に若手研究者の方たちを中心に始まった中東映画研究会(「映画から見る中東社会の変容」研究会)も、16回目を迎えました。
今回の題材は、パリ生まれのアルジェリア系ラシード・ブーシャーレブ監督による『ロンドン・リバー』。2009年、アルジェリア・フランス・イギリス合作の作品。
*ストーリー*
2005年7月7日、ロンドンで同時多発テロが発生する。英仏海峡のガーンジー島で農業を営むエリザベスは、ロンドンで大学生活を送る娘ジェーンに何度も電話するが連絡が取れない。心配になってロンドンに赴いたエリザベスは、留守の部屋で娘がアラビア語を学んでいることを知る。同じ部屋で暮らしていた恋人の父親オスマンも、行方不明の息子を探しにフランスからやってくる。西アフリカ出身のイスラーム教徒のオスマンと、キリスト教徒のエリザベスの二人が、励まし合いながら子どもたちの行方を追う・・・
今回の研究会のテーマは、「共有」。
“子どもへの愛と喪失感、悲しみを「共有」することで宗教や文化の違いを乗り越える親たちの姿を描き出す本作を通して、「テロとの戦い」が政治的言説空間を占拠する困難な時代の多文化共生の可能性について考えてみたい”と、案内にありました。
上映後、パレスチナ・イスラエル研究の第一人者で、「対テロ戦争」とイスラームをめぐる排除の力学について長年研究してこられた日本女子大学教授・臼杵陽先生の的確なコメントをお聞きすることができました。
同時多発テロというと、ニューヨークでの9.11(2001年9月11日)が思い浮かびますが、ロンドンでもそういえばあったと思い起こします。
イギリスに住むパキスタン系イスラーム教徒が起こしたテロ。本作では、アラビア語を学んでいた恋人どうしの二人がムスリムのテロで亡くなるという非条理。
旅行代理店の担当者がシク教徒だったり、警察にアラビア語を話す北アフリカ系と思われる担当官がいたりと、イギリスが多民族多宗教国家であることも見せています。それは世界の縮図でもあって、「テロとの戦い」と欧米の政治家が叫ぶ背景に感じる「欧米⇔イスラーム」「文明⇔野蛮」といった二分法的世界観では、テロは撲滅できないことに気づかせてくれます。
エリザベスは娘がアラビア語を学んでいるのを知って、「なんと怖い」とつぶやきますが、これはまぁごく一般的な反応でしょう。特に最近では、ISIS(イスラーム国)の台頭もあって、ますますイスラームは怖いというイメージを持たれてしまうのが悲しいです。他者の宗教や民族を尊敬することから平和共存への一歩は始まると思うのですが、なかなか難しいですね・・・
(ちなみに私自身はムスリマではないですが、あちこち旅をしてイスラームの人たちの優しさを身をもって感じているので、イスラーム贔屓という次第!)
『ロンドン・リバー』は、調べてみたら「三大映画祭週間2014」で公開されていました。この映画祭、チラシはちゃんとゲットしたのに、うっかり行き損ねたら、『フィル・ザ・ヴォイド』(イスラエル)がよかったと聞いて悔しい思いをしたのでした。『ロンドン・リバー』も秀作でした。今年も三大映画祭週間があるなら、見逃さないようにしないと!
余談ですが、エリザベスの住むガーンジー島、どこかで聞いた名前と思ったら、ついこの間観た『わたしの、終わらない旅』で、坂田雅子監督の姉・悠子さんの住む島として出てきたのでした!
2015年04月30日
2015年04月23日
老いた母に向き合ったドキュメンタリー映画 『抱擁』 記者会見 (咲)
これまで200本以上のテレビドキュメンタリーや、映画『ネムリユスリカ』『夏の祈り』を手掛けてきた坂口香津美監督が、実母に向き合ったドキュメンタリー。
4月14日(火) 日本外国特派員協会(FCCJ)で行われた試写会と記者会見の模様をお届けします。(取材:宮崎暁美・景山咲子)
登壇者:坂口香津美監督(写真中央)、プロデューサー・編集 落合篤子さん
司会:キャレン・セバンズさん(日本外国特派員協会)
(撮影:景山咲子)
◆上映前の挨拶
司会:今日この作品を選んだのは、この会場で映画をご覧になる方には、ご自身が年老いた親だったり、年老いた親を持っていたりする方がいらっしゃると思ったからです。いかに対処するかの映画ではないのですが、苦しい状況の中で、ほんの少しの愛情があれば改善できるのではというヒントを与えてくれる映画だと思います。最近、「絆」とよく言われますが、それをよく描いた映画と思います。
監督:今宵、『抱擁』を選んでいただきました日本外国特派員協会に感謝申し上げます。
私の母親を描いた映画で、途中つらいところもあると思いますが、どうぞ最後までご覧いただければと思います。
◆『抱擁』上映
78歳になる坂口監督の母、坂口すちえさん。4年前に長女を病気で亡くして以来、精神的に落ち込み、精神安定剤に頼る日々が続いていた。死にそうだと何度も救急車を呼ぶ母。手に負えなくなった父も、ほどなく入院し他界してしまう。喪失感で絶望の淵にいるすちえさんを、妹のマリ子さんは故郷の種子島に連れて帰る。38年ぶりの帰郷。マリ子さんの献身的な介護の日々が始まる・・・
◆上映後のQ&A
司会のセバンズさんより、英語で坂口監督のプロフィールが紹介された後、質疑応答に移りました。質問は英語でも日本語でも結構ですとのことでしたが、英語での質問が続きました。
プロデューサー・編集の落合篤子さん(左)と坂口香津美監督(撮影:宮崎暁美)
― 編集が興味深かった。えてしてロングテイクになりがちだけど、ペースが早かった。意識してのことだったのでしょうか?
監督:自分の母親の顔を長く見るのもつらいので、フラッシュで早く撮った方がいいかなと思いました。
落合:坂口監督はテレビのドキュメンタリーを200本以上作っていることもあって、多くの方に観ていただくのに、どうしたらいいかという思いで撮られたと思います。私自身、編集に関わって、監督と話し合いながら監督の思いをくみながら作っていきました。
― 裸のシーンや痛々しいシーンがあって赤裸々にお母様の姿をみせていましたが、さすがにトイレにはカメラは入りませんでした。どこまで見せるかという判断基準はどこにありましたか?
監督:トイレの中にも一度カメラを侵入させたけれど、そこだけはやめてくれと言われました。あとは息子の責任においてなんでも撮ってくれと。
― 過去の作品でも社会問題を扱っておられます。本作を撮る中で日本の医療や介護を描いておられます。この映画を撮って考えが変わったりしましたか?
監督:日本が高齢化社会を迎えるにあたって、国家も我々も危機的な状態にあると思います。母は昭和5年、父は大正15年生まれ。高度成長を経て生きてきた人たちが、社会の中で老いていく第一波。次に大きな第二波は、ベビーブーム世代が70歳になる2025年に訪れます。大きな波が津波のように襲ってくる予兆となる作品としてご覧いただければと思います。
― 監督自身、日本の介護システムについてどう思われましたか?
監督:母の場合、社会保険に入っていて、介護保険の認定も良い条件で受けられて恵まれていると思います。社会保険に入っていなくて恩恵を受けられない人たちが多くいることを思うと、今後、深刻な状況だと思います。
― この映画の撮影前にお母様と同世代の老齢者の方たちと関わりはありましたか? 団塊の世代が70代になった時、帰る故郷がなくなっているのではないでしょうか?
監督:母のドキュメンタリーを作るまで老人のドキュメンタリーを作ったことはありません。今、テレビ朝日のドキュメンタリーで高島平団地に取り組んでいます。過去に3万人いた東洋一のマンモス団地が、人口1万6千人になっていて、その半分近くが孤立死の可能性が高い。東京の象徴として、いかに孤立死を少なくするかのドキュメンタリーを作っています。高齢者のドキュメンタリーを作ったことはないと申し上げましたが、『夏の祈り』は被爆者のドキュメンタリーで高齢者の被爆者も含まれています。
私の家族が種子島から東京に出てきたのは、1971年。高度成長の真っ只中でした。日本各地から多くの人が東京に出稼ぎに来た時代です。その世代は、東京で生活基盤を作っていて、故郷に帰りたくても故郷に基盤のない人が多い。母は奇跡的に故郷に帰ることができましたが、東京で最期を迎える決意をした人が東京にはたくさんいるという現実です。
― いつ、なぜお母さんを撮る決意をされたのですか? どのように撮っていったのですか? 撮るにあたり、家族や親族から抵抗はあったのでしょうか?
監督:僕は15歳から家族と別々に暮らしていまして、父親から母親が一日に何回も救急車を呼ぶのでどうしたらいいだろうと電話があって、駆け付けたところ、母親が精神に支障をきたしていました。2年前の長女の死が母の精神的な領域を揺るがしていることがわかりました。それまで母のことをほったらかしにしていました。子どものころから強い母親で、肉体労働をしながら子育てをしてくれた母の、そんな姿を見て、一緒に暮らす決意をしました。ある時、どうしても撮影に行かないといけない用事がありまして、母を置いて、鍵をかけて出かけ、バスを待っている時、急にどうなるかわからない母を置いて仕事を優先している自分が間違っていると思って引き返しました。母は精神的混乱に陥っていて、私に「何をしている!」と、ものすごく怒りました。その時、無意識にカメラを手にしていました。現実の母は愛する存在であるけれど、自分の自由を奪っている存在。でも、ファインダーに写っているのは窓辺に座る小さな母。そんな母に愛情を感じました。それが映画を撮ることにした原点です。
このドキュメンタリーの核心部は、僕が母親と向き合う時は、母に対してもしかしたら手をあげるかもしれない危機的な緊張感のある状況です。一台のカメラを通して、母と接することができたということです。撮るということは、フォーカスするということ。カメラを向けることが僕と母親との両者の愛情を取り戻す結果になったと思います。
親戚がたくさん出てきてうらやましいと言われました。母が8人兄弟の長女で、日本が貧しかった戦前や戦争中、マリ子も含めて兄弟を背負って過ごしてきました。島に戻った時、昔世話になったから、その息子が撮っている映画には協力しようという思いがあったようです。
― 個人的な状況が同じで、笑えないシーンもあって、身につまされました。父を亡くし、母と二人暮らし。介護の問題は介護する側の人生が乱される。介護する側の世代に伝えたいことは?
監督:この映画を撮って後悔したことがあります。インタビューしたいと言われ、2時間会って、インタビュー自体は10分。あとは、その人のお母さんの相談でした。まるで美輪明宏のようになってしまって・・・ アドバイスとして、一つだけ言うとすれば、介護者がもっとも得意とするものを武器にすること。僕の場合はカメラを介在させることによって、母親と一定の距離を置くことができました。料理の得意な人は一生懸命料理を作る。洋服作りが得意な人は洋服を作る。無心に打ち込むことによって、自分の創作意欲も持つことができ、親との関係性も修復できるのではと思います。
司会:お母様は今、お元気ですか?
監督:母は見違えるほど回復して、映画の最後で畑仕事をしていますが、ぐんぐんよくなって、島の人たちも奇跡のようだと言ってます。埼玉の長女の墓参りと、この映画を観に、5月に東京に来たいというほど元気になりました。
司会:介護の10か条を含めた監督の言葉をお配りしていますので、ぜひお読みください。4月25日から公開されますが、英語字幕付きですので、そのこともぜひ皆さんにお伝えください。
プロデューサー・編集の落合篤子さん(左)と坂口香津美監督(撮影:宮崎暁美)
『抱擁』 英題:Walking with My Mother
製作・配給 スーパーサウルス
2014年/93分/16:9/カラー/日本
公式サイト:http://www.houyomovie.com/
★2015年4月25日(土)よりシアター・イメージフォーラム(東京・渋谷)にて公開
6月13(土)よりシネ・ヌーヴォ(大阪)にて公開。 他、全国順次公開
4月14日(火) 日本外国特派員協会(FCCJ)で行われた試写会と記者会見の模様をお届けします。(取材:宮崎暁美・景山咲子)
登壇者:坂口香津美監督(写真中央)、プロデューサー・編集 落合篤子さん
司会:キャレン・セバンズさん(日本外国特派員協会)
(撮影:景山咲子)
◆上映前の挨拶
司会:今日この作品を選んだのは、この会場で映画をご覧になる方には、ご自身が年老いた親だったり、年老いた親を持っていたりする方がいらっしゃると思ったからです。いかに対処するかの映画ではないのですが、苦しい状況の中で、ほんの少しの愛情があれば改善できるのではというヒントを与えてくれる映画だと思います。最近、「絆」とよく言われますが、それをよく描いた映画と思います。
監督:今宵、『抱擁』を選んでいただきました日本外国特派員協会に感謝申し上げます。
私の母親を描いた映画で、途中つらいところもあると思いますが、どうぞ最後までご覧いただければと思います。
◆『抱擁』上映
78歳になる坂口監督の母、坂口すちえさん。4年前に長女を病気で亡くして以来、精神的に落ち込み、精神安定剤に頼る日々が続いていた。死にそうだと何度も救急車を呼ぶ母。手に負えなくなった父も、ほどなく入院し他界してしまう。喪失感で絶望の淵にいるすちえさんを、妹のマリ子さんは故郷の種子島に連れて帰る。38年ぶりの帰郷。マリ子さんの献身的な介護の日々が始まる・・・
◆上映後のQ&A
司会のセバンズさんより、英語で坂口監督のプロフィールが紹介された後、質疑応答に移りました。質問は英語でも日本語でも結構ですとのことでしたが、英語での質問が続きました。
プロデューサー・編集の落合篤子さん(左)と坂口香津美監督(撮影:宮崎暁美)
― 編集が興味深かった。えてしてロングテイクになりがちだけど、ペースが早かった。意識してのことだったのでしょうか?
監督:自分の母親の顔を長く見るのもつらいので、フラッシュで早く撮った方がいいかなと思いました。
落合:坂口監督はテレビのドキュメンタリーを200本以上作っていることもあって、多くの方に観ていただくのに、どうしたらいいかという思いで撮られたと思います。私自身、編集に関わって、監督と話し合いながら監督の思いをくみながら作っていきました。
― 裸のシーンや痛々しいシーンがあって赤裸々にお母様の姿をみせていましたが、さすがにトイレにはカメラは入りませんでした。どこまで見せるかという判断基準はどこにありましたか?
監督:トイレの中にも一度カメラを侵入させたけれど、そこだけはやめてくれと言われました。あとは息子の責任においてなんでも撮ってくれと。
― 過去の作品でも社会問題を扱っておられます。本作を撮る中で日本の医療や介護を描いておられます。この映画を撮って考えが変わったりしましたか?
監督:日本が高齢化社会を迎えるにあたって、国家も我々も危機的な状態にあると思います。母は昭和5年、父は大正15年生まれ。高度成長を経て生きてきた人たちが、社会の中で老いていく第一波。次に大きな第二波は、ベビーブーム世代が70歳になる2025年に訪れます。大きな波が津波のように襲ってくる予兆となる作品としてご覧いただければと思います。
― 監督自身、日本の介護システムについてどう思われましたか?
監督:母の場合、社会保険に入っていて、介護保険の認定も良い条件で受けられて恵まれていると思います。社会保険に入っていなくて恩恵を受けられない人たちが多くいることを思うと、今後、深刻な状況だと思います。
― この映画の撮影前にお母様と同世代の老齢者の方たちと関わりはありましたか? 団塊の世代が70代になった時、帰る故郷がなくなっているのではないでしょうか?
監督:母のドキュメンタリーを作るまで老人のドキュメンタリーを作ったことはありません。今、テレビ朝日のドキュメンタリーで高島平団地に取り組んでいます。過去に3万人いた東洋一のマンモス団地が、人口1万6千人になっていて、その半分近くが孤立死の可能性が高い。東京の象徴として、いかに孤立死を少なくするかのドキュメンタリーを作っています。高齢者のドキュメンタリーを作ったことはないと申し上げましたが、『夏の祈り』は被爆者のドキュメンタリーで高齢者の被爆者も含まれています。
私の家族が種子島から東京に出てきたのは、1971年。高度成長の真っ只中でした。日本各地から多くの人が東京に出稼ぎに来た時代です。その世代は、東京で生活基盤を作っていて、故郷に帰りたくても故郷に基盤のない人が多い。母は奇跡的に故郷に帰ることができましたが、東京で最期を迎える決意をした人が東京にはたくさんいるという現実です。
― いつ、なぜお母さんを撮る決意をされたのですか? どのように撮っていったのですか? 撮るにあたり、家族や親族から抵抗はあったのでしょうか?
監督:僕は15歳から家族と別々に暮らしていまして、父親から母親が一日に何回も救急車を呼ぶのでどうしたらいいだろうと電話があって、駆け付けたところ、母親が精神に支障をきたしていました。2年前の長女の死が母の精神的な領域を揺るがしていることがわかりました。それまで母のことをほったらかしにしていました。子どものころから強い母親で、肉体労働をしながら子育てをしてくれた母の、そんな姿を見て、一緒に暮らす決意をしました。ある時、どうしても撮影に行かないといけない用事がありまして、母を置いて、鍵をかけて出かけ、バスを待っている時、急にどうなるかわからない母を置いて仕事を優先している自分が間違っていると思って引き返しました。母は精神的混乱に陥っていて、私に「何をしている!」と、ものすごく怒りました。その時、無意識にカメラを手にしていました。現実の母は愛する存在であるけれど、自分の自由を奪っている存在。でも、ファインダーに写っているのは窓辺に座る小さな母。そんな母に愛情を感じました。それが映画を撮ることにした原点です。
このドキュメンタリーの核心部は、僕が母親と向き合う時は、母に対してもしかしたら手をあげるかもしれない危機的な緊張感のある状況です。一台のカメラを通して、母と接することができたということです。撮るということは、フォーカスするということ。カメラを向けることが僕と母親との両者の愛情を取り戻す結果になったと思います。
親戚がたくさん出てきてうらやましいと言われました。母が8人兄弟の長女で、日本が貧しかった戦前や戦争中、マリ子も含めて兄弟を背負って過ごしてきました。島に戻った時、昔世話になったから、その息子が撮っている映画には協力しようという思いがあったようです。
― 個人的な状況が同じで、笑えないシーンもあって、身につまされました。父を亡くし、母と二人暮らし。介護の問題は介護する側の人生が乱される。介護する側の世代に伝えたいことは?
監督:この映画を撮って後悔したことがあります。インタビューしたいと言われ、2時間会って、インタビュー自体は10分。あとは、その人のお母さんの相談でした。まるで美輪明宏のようになってしまって・・・ アドバイスとして、一つだけ言うとすれば、介護者がもっとも得意とするものを武器にすること。僕の場合はカメラを介在させることによって、母親と一定の距離を置くことができました。料理の得意な人は一生懸命料理を作る。洋服作りが得意な人は洋服を作る。無心に打ち込むことによって、自分の創作意欲も持つことができ、親との関係性も修復できるのではと思います。
司会:お母様は今、お元気ですか?
監督:母は見違えるほど回復して、映画の最後で畑仕事をしていますが、ぐんぐんよくなって、島の人たちも奇跡のようだと言ってます。埼玉の長女の墓参りと、この映画を観に、5月に東京に来たいというほど元気になりました。
司会:介護の10か条を含めた監督の言葉をお配りしていますので、ぜひお読みください。4月25日から公開されますが、英語字幕付きですので、そのこともぜひ皆さんにお伝えください。
プロデューサー・編集の落合篤子さん(左)と坂口香津美監督(撮影:宮崎暁美)
『抱擁』 英題:Walking with My Mother
製作・配給 スーパーサウルス
2014年/93分/16:9/カラー/日本
公式サイト:http://www.houyomovie.com/
★2015年4月25日(土)よりシアター・イメージフォーラム(東京・渋谷)にて公開
6月13(土)よりシネ・ヌーヴォ(大阪)にて公開。 他、全国順次公開
2015年04月18日
マレーシア映画ウィーク あと2日です(暁)
マレーシア映画ウィーク
会期 : 2015年4月11日(土) − 4月19日(日)
会場 : シネマート六本木
4月11日から開催されていた「マレーシア映画ウィーク」も、あと2日です。
2005年の東京国際映画祭「アジアの風」部門で、最優秀アジア映画賞を受賞した『細い目』。受賞から10年目を迎える今年、ヒロイン、オーキッドを演じた女優、シャリファ・アマニとオーキッドの恋人、ジェイソンを演じた俳優、ン・チューセンが10年の時を経て、初めて日本にやってきました。
2000年ごろから若手アーティストを中心に起こったマレーシア・ニューウェーブムーブメント。ムーブメントを牽引してきたヤスミン・アフマド監督の代表作です。ヤスミン監督は、2009年、51歳で急逝し、その早すぎる死は多くの人々に衝撃を与えました。
シャリファ・アマニさんは何度か来日していますが、ン・チューセンさんは今回初めて。ヤスミンさんの勤める会社に入社してすぐ、映画に出ないかと言われて、この作品に出演したそうです。その後は映画には出たことはなく、広告関係の仕事をしていると話していました。ヤスミンさんは上司だったそうです。
この『細い目』は、今回、多色字幕版が上映されました。多言語国家のマレーシアでは、マレー語、英語、中国語(北京語、広東語、福建語)、インドの言語(主にタミル語)などが話されています。この作品でも何ヶ国語もの言葉が使われていて、今回、この試みはとても面白く感じました。この『細い目』多色字幕版
が上映されたときは、立ち見のときもありました。
シャリファ・アマニさん(左)とン・チューセンさん(右)
今回、ヤスミン・アフマド監督特集のほか、ジェームス・リー、ホー・ユーハン、ピート・テオ、シャリファ・アマニの作品、日馬インディペンデント作品、マレーシア人として初めて東京国際映画祭コンペティション部門にノミネートされたエドモンド・ヨウ監督『破裂するドリアンの河の記憶』などが上映されました。
残り2日間で下記作品が上映されます。
4月18日(土)『黒夜行路』『ムクシン』『クアラルンプールの夜明け』『細い目』
4月19日(日)『心の魔』『破裂するドリアンの河の記憶』『盗人の第二の人生』『タレンタイム』
シャリファ・アマニさんとピート・テオさんのQ&Aで
お茶目なアマニさんと、周潤發に似てきたピートさんでした。
シネマジャーナルでは2007年にピート・テオさんにインタビューしています。
http://www.cinemajournal.net/special/2007/peteteo/index00.html
ホー・ユーファン監督にもインタビューしています
http://www.cinemajournal.net/special/2009/Ho_Yuhang/
また、シネマジャーナル69号ではヤスミン・アハマド監督を特集しています
http://www.cinemajournal.net/bn/69/contents.html
マレーシア映画ウィーク 公式サイト : http://odd-pictures.asia/mfw
主催 : 混成アジア映画研究会 / マレーシア映画文化研究会 /ODD PICTURES
共催 : 国際交流基金アジアセンター / 京都大学地域研究統合情報センター
後援:日本マレーシア協会
協力 : Hati Malaysia / マレーシアごはんの会 / ムティアラ・アーツ・プロダクション / 株式会社GreenCreate / Astro Shaw / 東京国際映画祭
シネマート六本木は6月に閉館されますが、それまでに、台湾シネマコレクション、韓流祭、香港電影天堂最終章なども企画されています。
シネマート六本木HP THE LAST SHOW
http://www.cinemart.co.jp/theater/special/closing/
会期 : 2015年4月11日(土) − 4月19日(日)
会場 : シネマート六本木
4月11日から開催されていた「マレーシア映画ウィーク」も、あと2日です。
2005年の東京国際映画祭「アジアの風」部門で、最優秀アジア映画賞を受賞した『細い目』。受賞から10年目を迎える今年、ヒロイン、オーキッドを演じた女優、シャリファ・アマニとオーキッドの恋人、ジェイソンを演じた俳優、ン・チューセンが10年の時を経て、初めて日本にやってきました。
2000年ごろから若手アーティストを中心に起こったマレーシア・ニューウェーブムーブメント。ムーブメントを牽引してきたヤスミン・アフマド監督の代表作です。ヤスミン監督は、2009年、51歳で急逝し、その早すぎる死は多くの人々に衝撃を与えました。
シャリファ・アマニさんは何度か来日していますが、ン・チューセンさんは今回初めて。ヤスミンさんの勤める会社に入社してすぐ、映画に出ないかと言われて、この作品に出演したそうです。その後は映画には出たことはなく、広告関係の仕事をしていると話していました。ヤスミンさんは上司だったそうです。
この『細い目』は、今回、多色字幕版が上映されました。多言語国家のマレーシアでは、マレー語、英語、中国語(北京語、広東語、福建語)、インドの言語(主にタミル語)などが話されています。この作品でも何ヶ国語もの言葉が使われていて、今回、この試みはとても面白く感じました。この『細い目』多色字幕版
が上映されたときは、立ち見のときもありました。
シャリファ・アマニさん(左)とン・チューセンさん(右)
今回、ヤスミン・アフマド監督特集のほか、ジェームス・リー、ホー・ユーハン、ピート・テオ、シャリファ・アマニの作品、日馬インディペンデント作品、マレーシア人として初めて東京国際映画祭コンペティション部門にノミネートされたエドモンド・ヨウ監督『破裂するドリアンの河の記憶』などが上映されました。
残り2日間で下記作品が上映されます。
4月18日(土)『黒夜行路』『ムクシン』『クアラルンプールの夜明け』『細い目』
4月19日(日)『心の魔』『破裂するドリアンの河の記憶』『盗人の第二の人生』『タレンタイム』
シャリファ・アマニさんとピート・テオさんのQ&Aで
お茶目なアマニさんと、周潤發に似てきたピートさんでした。
シネマジャーナルでは2007年にピート・テオさんにインタビューしています。
http://www.cinemajournal.net/special/2007/peteteo/index00.html
ホー・ユーファン監督にもインタビューしています
http://www.cinemajournal.net/special/2009/Ho_Yuhang/
また、シネマジャーナル69号ではヤスミン・アハマド監督を特集しています
http://www.cinemajournal.net/bn/69/contents.html
マレーシア映画ウィーク 公式サイト : http://odd-pictures.asia/mfw
主催 : 混成アジア映画研究会 / マレーシア映画文化研究会 /ODD PICTURES
共催 : 国際交流基金アジアセンター / 京都大学地域研究統合情報センター
後援:日本マレーシア協会
協力 : Hati Malaysia / マレーシアごはんの会 / ムティアラ・アーツ・プロダクション / 株式会社GreenCreate / Astro Shaw / 東京国際映画祭
シネマート六本木は6月に閉館されますが、それまでに、台湾シネマコレクション、韓流祭、香港電影天堂最終章なども企画されています。
シネマート六本木HP THE LAST SHOW
http://www.cinemart.co.jp/theater/special/closing/
2015年04月07日
地球交響曲第8番〜完成披露試写会トークイベント〜 (千)
去る2月22日明治神宮で行われました。
取材までの待ち時間、明治神宮を参拝し、おみくじを引いたら
なんと同じ8番で、末広がり無限大… ラッキーな予感でした
登壇は龍村仁監督ほか出演者の能面打・見市泰男さん、
バイオリン製作者・中澤宗幸さんとバイオリニスト・中澤きみ子さん、
カキ養殖業でNPO「森は海の恋人」理事長・畠山重篤さん
ナレーションの榎木孝明さんと木内みどりさん
そしてスペシャルゲストも…。
当時40代だった龍村監督は現在74歳。第一作からナレーションをしている
榎木孝明さんも当時は30代でしたが、来年は還暦だそうです。
榎木さんの「人間は食べなくても生きていける?」という いきなり濃い話から
始まり、明治神宮の森は、しばし不思議な雰囲気に包まれておりました。
気仙沼で津波を体験された畠山さんのお話は
おかげさまで息子は助かったとおっしゃっていましたが
代わりにおふくろが死んだんですけど… と。津波は25メートル
4階建ての建物ぐらいに達したということです。龍村監督は、このような
決定的なダメージに見えることがあった時に
それを「受け止める態度」が大切とおっしゃっていました。
津波が何メートルだったから、今度は堤防を何メートルにすればいい…
というように「ハウツー」で乗り越えようとするけれども
ここには人知をはるかに超えた大きな力が働いている。そういう
「人知を超えたつながり」を体感することが乗り越える力になるのではないか、
と。畠山さんは、自然災害は時を経れば何とか乗り越えられるけれども、
原発は… 時間が経っても乗り越えることが難しいとおっしゃいました。
原発を創り出したのも人間の知恵であり、知恵を出すことは
悪いことではないけれど人知を超えた「生かされているという体感」を
忘れてしまうことが問題だ、と龍村監督。
中澤宗幸さんは、自分と接点の無かった畠山さんや見市さんたちと
すごく共通するものを感じて、それをつなげてくれた龍村監督はスゴイ、
と感謝されていました。宗幸さんは、幼い頃から木と共に
育ってきたそうです。お父様は、木を伐採するときに、いつも
「ごくろうさん」と声をかけていた。
子どもの頃には深く考えなかったということですが、自然に木との
つながりを感じ木の精霊の声を聞きながら育って、現在の
仕事・バイオリンの製作につながっていったのでしょう。
バイオリン奏者のきみ子さんも、川辺で父がバイオリンを弾き
母が歌うという「ナチュラルに音楽がある」環境で育ちました。
均等に弾いてしまいがちな並んでいるオタマジャクシをいかに崩し
いのちを吹き込むか… 音符に喜びや悲しみを乗せることが音楽家の
仕事だとおっしゃっていました。オタマジャクシがみんなの体験になって
音楽がもっとみんなに寄り添うように… 体を鍛えながら
音符に人生を乗せ、世界の物語を綴っていけたら… と熱く語りました。
そして能面打の見市さん。
能面をつくるには、胡粉(ごふん)というカキの殻からつくられる
顔料が欠かせないとのことで、カキがなければ能面はつくれない。
海のカキには森が必要。森は木と植物で出来ている。
木や植物は光合成をし、生命に欠かせない酸素をつくる。
そして、光合成には太陽が必要。「神様」を含め、すべてがつながり、
宇宙はひとつであるということが、この映画を観てわかり
感動されたそうです。木の精霊と出逢い、その声を聞く。
心に木を植える。
物質的なものの見方をしていてはわからないこと。
畠山さんは、「森と海がひとつである」ということについて
川の流域に住む人の意識がいちばん問題だと言います。
だから、心に木を植えることが大切。
子どもたちの環境教育に携わる畠山さん。そこに手をつけないと
何も変わらない、と。龍村さんは第一作目の女性の声の出演者を
探しているとき、木内みどりさんに会った瞬間に
そのしゃべり方の中に「何かがある」とわかったそうです。
心に木を植えると、こんな直観が働くようになるんでしょうか…。
公開中の『地球交響曲 第八番』 みなさん、ぜひご覧ください!!
(撮影・暁さん)
作品紹介はコチラ
取材までの待ち時間、明治神宮を参拝し、おみくじを引いたら
なんと同じ8番で、末広がり無限大… ラッキーな予感でした
登壇は龍村仁監督ほか出演者の能面打・見市泰男さん、
バイオリン製作者・中澤宗幸さんとバイオリニスト・中澤きみ子さん、
カキ養殖業でNPO「森は海の恋人」理事長・畠山重篤さん
ナレーションの榎木孝明さんと木内みどりさん
そしてスペシャルゲストも…。
当時40代だった龍村監督は現在74歳。第一作からナレーションをしている
榎木孝明さんも当時は30代でしたが、来年は還暦だそうです。
榎木さんの「人間は食べなくても生きていける?」という いきなり濃い話から
始まり、明治神宮の森は、しばし不思議な雰囲気に包まれておりました。
気仙沼で津波を体験された畠山さんのお話は
おかげさまで息子は助かったとおっしゃっていましたが
代わりにおふくろが死んだんですけど… と。津波は25メートル
4階建ての建物ぐらいに達したということです。龍村監督は、このような
決定的なダメージに見えることがあった時に
それを「受け止める態度」が大切とおっしゃっていました。
津波が何メートルだったから、今度は堤防を何メートルにすればいい…
というように「ハウツー」で乗り越えようとするけれども
ここには人知をはるかに超えた大きな力が働いている。そういう
「人知を超えたつながり」を体感することが乗り越える力になるのではないか、
と。畠山さんは、自然災害は時を経れば何とか乗り越えられるけれども、
原発は… 時間が経っても乗り越えることが難しいとおっしゃいました。
原発を創り出したのも人間の知恵であり、知恵を出すことは
悪いことではないけれど人知を超えた「生かされているという体感」を
忘れてしまうことが問題だ、と龍村監督。
中澤宗幸さんは、自分と接点の無かった畠山さんや見市さんたちと
すごく共通するものを感じて、それをつなげてくれた龍村監督はスゴイ、
と感謝されていました。宗幸さんは、幼い頃から木と共に
育ってきたそうです。お父様は、木を伐採するときに、いつも
「ごくろうさん」と声をかけていた。
子どもの頃には深く考えなかったということですが、自然に木との
つながりを感じ木の精霊の声を聞きながら育って、現在の
仕事・バイオリンの製作につながっていったのでしょう。
バイオリン奏者のきみ子さんも、川辺で父がバイオリンを弾き
母が歌うという「ナチュラルに音楽がある」環境で育ちました。
均等に弾いてしまいがちな並んでいるオタマジャクシをいかに崩し
いのちを吹き込むか… 音符に喜びや悲しみを乗せることが音楽家の
仕事だとおっしゃっていました。オタマジャクシがみんなの体験になって
音楽がもっとみんなに寄り添うように… 体を鍛えながら
音符に人生を乗せ、世界の物語を綴っていけたら… と熱く語りました。
そして能面打の見市さん。
能面をつくるには、胡粉(ごふん)というカキの殻からつくられる
顔料が欠かせないとのことで、カキがなければ能面はつくれない。
海のカキには森が必要。森は木と植物で出来ている。
木や植物は光合成をし、生命に欠かせない酸素をつくる。
そして、光合成には太陽が必要。「神様」を含め、すべてがつながり、
宇宙はひとつであるということが、この映画を観てわかり
感動されたそうです。木の精霊と出逢い、その声を聞く。
心に木を植える。
物質的なものの見方をしていてはわからないこと。
畠山さんは、「森と海がひとつである」ということについて
川の流域に住む人の意識がいちばん問題だと言います。
だから、心に木を植えることが大切。
子どもたちの環境教育に携わる畠山さん。そこに手をつけないと
何も変わらない、と。龍村さんは第一作目の女性の声の出演者を
探しているとき、木内みどりさんに会った瞬間に
そのしゃべり方の中に「何かがある」とわかったそうです。
心に木を植えると、こんな直観が働くようになるんでしょうか…。
公開中の『地球交響曲 第八番』 みなさん、ぜひご覧ください!!
(撮影・暁さん)
作品紹介はコチラ
歴史あるホテルニューグランド本館に泊まって、創立140周年の小学校入学式に参列 (咲)
横浜に住む妹の孫の小学校入学式に父が出たいと言うので、一緒に参列してきました。小学校の校庭には満開の桜。 入学式といえば桜ですねぇ。
父にとっては曾孫の入学式で、とても嬉しそうでした。私もこんなことがなければ小学校に立ち入ることなどなかったので、とても新鮮な経験でした。
横浜市立の小学校ですが、なんと創立140周年で、びっくり。
そして、ランドセルが色とりどりで、昔の赤と黒の時代とは様変わりだなぁ〜とびっくり。(もっとも私のランドセルは紺だった!)
そして、今回、何が嬉しかったって、朝が早いので前日、山下公園に面したホテルニューグランドの本館に泊まったこと。3階の部屋に入ると、目の前には氷川丸が・・・
昭和2年(1927年)開業の本館は趣があって、とても素敵でした。
父にとっては、戦争中に軍医だった父の兄がラバウルに発つ前の日に、ニューグランドに泊まったのを見送りに来て、2階のロビーで結構長い時間話したとのことで、感無量だったようです。
重厚な雰囲気のニューグランド本館は、映画の舞台にもぴったり。
最近の映画では、平川雄一朗監督作品『ツナグ』(2012年10月公開)で、依頼人と死んだ人を合わせる待ち合わせ場所として登場しているそうです。
ちなみに、今回、日曜日の夜だったからか、ツイン一部屋 13000円という、とてもリーズナブルなお値段でした。
目の前が海で、香港の九龍サイドに泊まっている錯覚に♪
あ〜香港にも行きたい!
父にとっては曾孫の入学式で、とても嬉しそうでした。私もこんなことがなければ小学校に立ち入ることなどなかったので、とても新鮮な経験でした。
横浜市立の小学校ですが、なんと創立140周年で、びっくり。
そして、ランドセルが色とりどりで、昔の赤と黒の時代とは様変わりだなぁ〜とびっくり。(もっとも私のランドセルは紺だった!)
そして、今回、何が嬉しかったって、朝が早いので前日、山下公園に面したホテルニューグランドの本館に泊まったこと。3階の部屋に入ると、目の前には氷川丸が・・・
昭和2年(1927年)開業の本館は趣があって、とても素敵でした。
父にとっては、戦争中に軍医だった父の兄がラバウルに発つ前の日に、ニューグランドに泊まったのを見送りに来て、2階のロビーで結構長い時間話したとのことで、感無量だったようです。
重厚な雰囲気のニューグランド本館は、映画の舞台にもぴったり。
最近の映画では、平川雄一朗監督作品『ツナグ』(2012年10月公開)で、依頼人と死んだ人を合わせる待ち合わせ場所として登場しているそうです。
ちなみに、今回、日曜日の夜だったからか、ツイン一部屋 13000円という、とてもリーズナブルなお値段でした。
目の前が海で、香港の九龍サイドに泊まっている錯覚に♪
あ〜香港にも行きたい!