映画編集者の岸富美子さん(98歳)が5月23日(2019年)亡くなった。日本の女性編集者の草分け的存在だったが、戦前戦後の激動の歴史に翻弄され、波乱万丈の人生だった。
1920年(大正9年)中国東北部奉天省営口生まれ。映画カメラマンの兄の紹介により、15歳で京都の第一映画社に入り編集助手に。サイレントからトーキーへ変わる時期だった。伊藤大輔監督『お六櫛』(1936年/昭和11年)、溝口健二監督『浪華悲歌』(1936年)などで編集助手の仕事に携わる。溝口監督の助監督だった坂根田鶴子(後に女性監督の草分けになった)の下で編集助手を務めた。
その後、JOスタヂオで伊丹万作監督、アーノルド・ファンク監督の日独合作映画『新しき土』(1937年)に参加。この作品でドイツの女性編集者アリス・ルードヴィッヒに最新の編集技術を学んだ。
日活などを経て、1939年/昭和14年に兄たちと共に中国大陸に渡り、満州映画協会(満映)で編集者として働き始め、李香蘭の『私の鶯』などに編集助手として携わった。
戦後、内戦に巻き込まれ、日本にすぐには帰れず、内田吐夢監督らと共に東北電影製片廠に残った。そこで国民的映画『白毛女』(1950年)の編集を手がけ、新中国の映画製作者たちに編集技術を教え、中国映画発展の礎を築いた。しかし、日本人が製作に貢献した事実は長く伏せられ、2005年、過去100年の中国映画の歴史を紹介する「中国電影博物館」ができるまでは「安芙梅」という中国名で記されていた。この博物館ができた時、中国映画史での日本人の功績を讃えるコーナーが設けられたという。
1953年(昭和28年)日本に帰国。
岸さん家族の満映崩壊後の生活は波瀾万丈だった。ソ連軍の侵攻、共産党による「精簡」と呼ばれる学習会での自己批判や人員整理、炭鉱労働など、過酷な生活が続き、その後、新中国の映画作りに参加することになった。岸さんは戦前戦後の激動の中国映画史の生き証人だった。岸さんの家族を始め、他にも日本の映画人が大陸に残り、新中国の映画作りに関わったという。
しかし、戦後中国に残留することになり、50年代にやっと帰国した映画人たちは、日本では「アカ」というレッテルを貼られ、日本映画界に受け入れられなかった。岸さんもフリーランスでしか働く道しかなく、主に独立プロなどで編集の仕事を手がけた。
2015年、岸富美子・石井妙子共著の手記「満映とわたし」(文藝春秋刊)が出版された。この本を元に劇団民芸が、昨年(2018年)「時を接ぐ」というタイトルで、岸さんの生涯を(主演・日色ともゑ)舞台化した。
シネマジャーナルでは岸さんに取材し、本誌95号(2015年)に掲載している。なお、シネマジャーナル71号では岸さんと同じく、戦後も中国に在留し、中国映画の発展とその後の日中映画交流・通訳・翻訳などに尽くした森川和代さん(『山の郵便配達』『上海家族』などの日本語字幕担当)の遺稿を夫の森川忍さんがまとめた<森川和代が生きた旧「満州」、その時代―革命と戦火を駆け抜けた青春期>も紹介している。
私が岸富美子さんのことを知ったのは、2009年、明治学院大学で行われた「第14回 日本映画シンポジウム 日本/ 中国 映画往還」で、岸富美子さんの講演があることを知らせるチラシでした。
森川和代さんをはじめ、内田吐夢監督、加藤泰監督など、戦後、中国に残されて新中国の映画黎明期を支えた映画人がいたというのは知っていましたが、女性編集者でそういう方がいたというのが驚きでした。そしてその講演で、中国だけでなく北朝鮮の映画製作所にまで派遣されていたという話を聞き、数奇な運命、波乱万丈の人生を送った方なんだと知りました。
日本の女性映画編集者のパイオニアとも言える人なのに、日本に帰ってから、日本の映画界では「中国帰りのアカ」というレッテルを貼られ、認められずにいたということに理不尽さを感じました。その後、晩年になって、やっと彼女の仕事が広く認められ、「満映とわたし」という本も出版された時は、ほんとに良かったと思いました。去年(2018)、この本を元にして岸さんの生涯を描いた、劇団民芸の「時を接ぐ」という演劇にも行ってきました。日色ともゑさんが岸さんの若い頃から年をとるまで演じていましたが、演劇を見るのが久しぶりだった私にとって、とっても新鮮な経験でした。実際の映画編集機などを使って、編集作業を教えるシーンなどは、やはり本とは違ってリアルで、とても興味深かったです(暁)。
2019年07月14日
2019年07月07日
インドとレバノンの女性監督3人にお会いした幸せな1週間 (咲)
今週は、女性監督3人に接することの出来た嬉しい日々が続きました。
1日(月) 夕方 『あなたの名前を呼べたなら』のロヘナ・ゲラ監督にスカイプインタビュー。
インド、大都市ムンバイを舞台に、建設会社の御曹司と住み込み家政婦との恋を描いた物語。厳しい階級社会であるインドで、女性の自立や、身分を越えての人間関係を描いていて、とても感銘を受けた作品です。
来日時の監督写真 cmitsuhiro YOSHIDA/color field
6月初旬に来日された時に、取材の時間をいただけなくて残念に思っていたら、スカイプでのインタビューの時間を設定しましたとの連絡をいただきました。
実はスカイプは初めて。パリにいるロヘナ・ゲラ監督の顔がパソコンの画面いっぱいに。まさしく顔と顔を突き合わせてのインタビューとなりました。
(インタビューの報告は後日!)
友人たちが気軽に遠方の家族や語学のレッスンに使っているスカイプを経験できて、私もこれからは何かの機会に使ってみたいなと思いました。
★『あなたの名前を呼べたなら』8月2日(金) Bunkamuraル・シネマ他全国順次公開
3日(水) 夕方。『存在のない子供たち』 レバノンのナディーン・ラバキ―監督に3誌合同インタビュー。
監督第一作の『キャラメル』の鮮烈な印象が忘れられないナディーン・ラバキ―の第3作。いち早く映画を観たくて、初回試写に行ったのが5月10日。その時に監督の来日が実現するかもと宣伝さんから伺って、楽しみにしていたのですが、私自身もすっかり忘れていた頃に取材が実現しました。
『キャラメル』の日本公開の折には、第一子ご懐妊で来日できず、初来日。
『キャラメル』で音楽を担当したハーレド・ムザンナルさんと、製作後にご結婚。『存在のない子供たち』では、音楽だけでなくプロデューサーも務めたハーレドさんがインタビューに同席予定と伺っていたのですが、来日早々体調を崩されて同席されませんでした。ナディーン・ラバキーさん、時差ボケで眠い中、多くの取材をこなしていました。一つ一つの質問に対して、とても長く答えてくださるので、3番手で質問することにした私に残された時間は5分! それでも頑張って聞きたかったことをクリアーしました。
(こちらのインタビューの報告も後日!)
4日(木) 夜。東京外国語大学でのインドの女性監督ナンディタ・ダースも登壇する『マントー』上映会。印パ分離独立に人生を翻弄されたウルドゥ―文学の作家マントーの伝記物語。とても重厚な作品。上映後に登壇したナンディタ・ダース監督は、とても華奢で可愛らしい方でした。
写真:関係者席にいらした村山和之さんから提供いただきました。
映画『マントー』と、トークの様子はこちらでご覧ください。
http://cinemajournal.seesaa.net/article/467713297.html
5日(金)16:20。 高輪のユニセフハウスで『存在のない子供たち』トークイベント。
ナディーン・ラバキー監督と、夫でプロデューサーと音楽を務めたハーレド・ムザンナルさんがトークに登壇し、フォトセッションの時には、子どもたちも登壇予定と聞いていたのですが、トークの時から息子のワリード君と娘のメイルーンちゃんも一緒に登壇。
クールなワリード君とちがって、メイルーンちゃんは愛嬌を振りまき、飽きると変顔をしてみたりと、観客の目は彼女に釘付けに。ナディーン・ラバキー監督が質問に答えようとすると、メイルーンちゃん、「私が答えるの!」と駄々をこねてマイクを離さない! もう、皆、大笑いでした。質問しようとした女性が感極まって泣いてしまい、監督も涙ぐんでしまったら、今度は「なぜ、ママ泣いてるの?」とメイルーンちゃんも泣きだしました。退場するのも、メイルーンちゃんが最後。大きなお辞儀をする彼女に、皆、大喝采でした。
(トークイベントの報告も後日お届けします。)
★『存在のない子供たち』7月20日(土)シネスイッチ銀座、ヒューマントラスト有楽町、ほか全国でロードショー、新宿武蔵野館ほかロードショー
今週お会いした3人の監督に共通するのは、女優としてもキャリアがあって、まさに才色兼備。ナンディタ・ダース監督のことは確認できませんでしたが、ロヘナ・ゲラ監督もナディーン・ラバキー監督も理解ある夫が、経験のないプロデューサーを買って出てくれて、思うように映画を作る環境を作ってくれたということ。うらやましい限りでした。
1日(月) 夕方 『あなたの名前を呼べたなら』のロヘナ・ゲラ監督にスカイプインタビュー。
インド、大都市ムンバイを舞台に、建設会社の御曹司と住み込み家政婦との恋を描いた物語。厳しい階級社会であるインドで、女性の自立や、身分を越えての人間関係を描いていて、とても感銘を受けた作品です。
来日時の監督写真 cmitsuhiro YOSHIDA/color field
6月初旬に来日された時に、取材の時間をいただけなくて残念に思っていたら、スカイプでのインタビューの時間を設定しましたとの連絡をいただきました。
実はスカイプは初めて。パリにいるロヘナ・ゲラ監督の顔がパソコンの画面いっぱいに。まさしく顔と顔を突き合わせてのインタビューとなりました。
(インタビューの報告は後日!)
友人たちが気軽に遠方の家族や語学のレッスンに使っているスカイプを経験できて、私もこれからは何かの機会に使ってみたいなと思いました。
★『あなたの名前を呼べたなら』8月2日(金) Bunkamuraル・シネマ他全国順次公開
3日(水) 夕方。『存在のない子供たち』 レバノンのナディーン・ラバキ―監督に3誌合同インタビュー。
監督第一作の『キャラメル』の鮮烈な印象が忘れられないナディーン・ラバキ―の第3作。いち早く映画を観たくて、初回試写に行ったのが5月10日。その時に監督の来日が実現するかもと宣伝さんから伺って、楽しみにしていたのですが、私自身もすっかり忘れていた頃に取材が実現しました。
『キャラメル』の日本公開の折には、第一子ご懐妊で来日できず、初来日。
『キャラメル』で音楽を担当したハーレド・ムザンナルさんと、製作後にご結婚。『存在のない子供たち』では、音楽だけでなくプロデューサーも務めたハーレドさんがインタビューに同席予定と伺っていたのですが、来日早々体調を崩されて同席されませんでした。ナディーン・ラバキーさん、時差ボケで眠い中、多くの取材をこなしていました。一つ一つの質問に対して、とても長く答えてくださるので、3番手で質問することにした私に残された時間は5分! それでも頑張って聞きたかったことをクリアーしました。
(こちらのインタビューの報告も後日!)
4日(木) 夜。東京外国語大学でのインドの女性監督ナンディタ・ダースも登壇する『マントー』上映会。印パ分離独立に人生を翻弄されたウルドゥ―文学の作家マントーの伝記物語。とても重厚な作品。上映後に登壇したナンディタ・ダース監督は、とても華奢で可愛らしい方でした。
写真:関係者席にいらした村山和之さんから提供いただきました。
映画『マントー』と、トークの様子はこちらでご覧ください。
http://cinemajournal.seesaa.net/article/467713297.html
5日(金)16:20。 高輪のユニセフハウスで『存在のない子供たち』トークイベント。
ナディーン・ラバキー監督と、夫でプロデューサーと音楽を務めたハーレド・ムザンナルさんがトークに登壇し、フォトセッションの時には、子どもたちも登壇予定と聞いていたのですが、トークの時から息子のワリード君と娘のメイルーンちゃんも一緒に登壇。
クールなワリード君とちがって、メイルーンちゃんは愛嬌を振りまき、飽きると変顔をしてみたりと、観客の目は彼女に釘付けに。ナディーン・ラバキー監督が質問に答えようとすると、メイルーンちゃん、「私が答えるの!」と駄々をこねてマイクを離さない! もう、皆、大笑いでした。質問しようとした女性が感極まって泣いてしまい、監督も涙ぐんでしまったら、今度は「なぜ、ママ泣いてるの?」とメイルーンちゃんも泣きだしました。退場するのも、メイルーンちゃんが最後。大きなお辞儀をする彼女に、皆、大喝采でした。
(トークイベントの報告も後日お届けします。)
★『存在のない子供たち』7月20日(土)シネスイッチ銀座、ヒューマントラスト有楽町、ほか全国でロードショー、新宿武蔵野館ほかロードショー
今週お会いした3人の監督に共通するのは、女優としてもキャリアがあって、まさに才色兼備。ナンディタ・ダース監督のことは確認できませんでしたが、ロヘナ・ゲラ監督もナディーン・ラバキー監督も理解ある夫が、経験のないプロデューサーを買って出てくれて、思うように映画を作る環境を作ってくれたということ。うらやましい限りでした。
2019年07月06日
インドの女性監督ナンディタ・ダースも登壇。『マントー』上映会 (咲)
印パ分離独立に翻弄された作家マントーの伝記物語『マントー』を、7月4日(木)夜6時から東京外国語大学で観てきました。
40分前に着き、受付でいただいた萩田博さんによる詳しい解説を読んで映画に臨みました。お陰で映画の中に織り込まれるマントーの短編の場面も、すんなり理解できました。
(かつて国際交流基金で萩田さんのウルドゥー文学の講座を受けたことがあるのを思い出しました。講座が開かれたのは、資料に1996年とありました。マントーの名前、覚えていません・・・ トホホ)
サアーダト・ハサン・マントーは、英領インドだった1912年、現在インド側にあるパンジャーブで生まれる。幼年期から青年期をアムリットサルで過ごす。
ユーゴーやオスカー・ワイルドの戯曲、ロシア文学の短編小説などのウルドゥー語への翻訳を経て、短編小説の執筆を始める。
1937年、ボンベイで映画関係の雑誌「ムサッヴィル(画家)」の編集者となる。1939年、サフィアと結婚。
1941年、オール・インディア・ラジオのデリー放送局に勤務。ラジオ・ドラマを数多く執筆。
1942年、ボンベイに戻り、雑誌の編集や映画の脚本を執筆。俳優のシヤームや アショーク・クマールとの親交を深める。
1947年、印パ分離独立。妻サフィアと子どもたちはラホールに移住。
1948年、マントーもラホールに移る。
1955年、肝臓を患い、42歳で逝去。
印パ分離独立後、先にラホールに移住した妻から早く来てほしいと手紙が来ても、ボンベイを離れたくなかったマントー。「ムスリムを殺せ!」「パキスタンに行け!」の声が高まり、職場でもムスリム排除の動きが強くなり、さらにマントーの脚本が映画化されないという事態もあり、ついに移住を決意した様子が映画で描かれていました。
ボンベイにいる親友からの手紙も読もうとしないマントー。
「今や僕のボンベイは別の国。父も母もそこに眠っているのに」という言葉が、ぐさっと胸に刺さりました。
マントーの小説は性や人間の心理描写が猥雑だとして、何度も裁判沙汰になります。弁護士が手を引き、あるがままを表現したいだけと自己弁護するマントー。
心が折れ、酒浸りになり、ついには肝臓を悪くして早死にしてしまうのです。
どんな状況にあっても夫を支え続けた妻サフィアの気持ちを思い、涙。
映画の余韻に浸る中、ナンディタ・ダース監督が登壇。女優でもある彼女、華奢で可愛らしい方で、どこにこんな重厚な映画を作るエネルギーを秘めているのかとびっくりしました。
写真:関係者席にいらした村山和之さんから提供していただきました。
スピーチは、会場からの要望でヒンディー語で行われました。
ナンディタ・ダース監督は、ウルドゥー語で書かれたマントーの小説のヒンディー語訳全集を丹念に読み解いて映画化されたとのこと。
自身が話すよりも、会場からの質問を受けたいとマイクを会場に委ねました。
この質疑応答の模様は、いずれ外語大のウルドゥー専攻のサイトに掲載する予定とのことですので、ここでは私が留めておきたい監督の言葉を披露しておきます。
マントーが色々な困難に遭いながら、立ち向かって書き続けたことを伝えたいと思いました。
映画を観る人によって捉え方が違うと思います。観る人自身がどういう人生を生きてきたかで観る目も違うと思います。単に映画がいいか悪いかでなく、映画を通じて話し合いが始まることを願っています。
もし、今の時代にマントーが生きていたら「表現の自由があるのに、皆、なぜ声をあげようとしないのか?」と言うのではとも。
エンドロールで歌われる「Bol(話せ)」は、ファイズ・アフマド・ファイズの有名な詩とのこと。
麻田豊氏による「できるだけ原文に沿った試訳」をこちらに掲載させていただきます。
話せ 君の唇は自由なのだから
話せ 舌はまだ君のものだから
君のすらりとした身体は君のものだから
話せ 命はまだ君のものだから
見よ 鍛冶屋の店の中を
炎は燃え盛り 鉄は真っ赤
南京錠の口が開き始めた
ひとつひとつの鎖の輪が解けた
話せ この短い時間で十分
身体と舌が死に絶える前なら
話せ 真実はまだ生きている
話せ 言うべきことは言うのだ
監督は13日間、日本に滞在予定です。
ナンディタ・ダース監督の登壇するワークショップもあります。
◆ワークショップ「現代インド女性をめぐる問題:女優として、活動家として」
2019年7月9日〈火〉 18:00開映(17:45開場)
場所:東京外国語大学 研究講義棟1階100
登壇:ナンディタ・ダース監督
使用言語:英語/参加費無料/先着順/申込不要/定員60名
*****
帰り道、印パ分離で故郷を離れなければいけなかった多くの人たちのことに思いを馳せました。トルコとギリシャの住民交換も然り。世界の各地で、どれだけ多くの人が政治的要因の犠牲になったことでしょう。
私は父の転職で、15歳の時に神戸から東京に引っ越しました。今でも心は故郷の神戸に・・・ 政治的なことで自分の意志でなく故郷を離れた人たちと状況は違うけど、気持ちわかります。
東京外国語大学での上映会情報は、こちらで!
◆TUFS Cinemaウェブサイト
https://www.tufscinema.jp
40分前に着き、受付でいただいた萩田博さんによる詳しい解説を読んで映画に臨みました。お陰で映画の中に織り込まれるマントーの短編の場面も、すんなり理解できました。
(かつて国際交流基金で萩田さんのウルドゥー文学の講座を受けたことがあるのを思い出しました。講座が開かれたのは、資料に1996年とありました。マントーの名前、覚えていません・・・ トホホ)
サアーダト・ハサン・マントーは、英領インドだった1912年、現在インド側にあるパンジャーブで生まれる。幼年期から青年期をアムリットサルで過ごす。
ユーゴーやオスカー・ワイルドの戯曲、ロシア文学の短編小説などのウルドゥー語への翻訳を経て、短編小説の執筆を始める。
1937年、ボンベイで映画関係の雑誌「ムサッヴィル(画家)」の編集者となる。1939年、サフィアと結婚。
1941年、オール・インディア・ラジオのデリー放送局に勤務。ラジオ・ドラマを数多く執筆。
1942年、ボンベイに戻り、雑誌の編集や映画の脚本を執筆。俳優のシヤームや アショーク・クマールとの親交を深める。
1947年、印パ分離独立。妻サフィアと子どもたちはラホールに移住。
1948年、マントーもラホールに移る。
1955年、肝臓を患い、42歳で逝去。
印パ分離独立後、先にラホールに移住した妻から早く来てほしいと手紙が来ても、ボンベイを離れたくなかったマントー。「ムスリムを殺せ!」「パキスタンに行け!」の声が高まり、職場でもムスリム排除の動きが強くなり、さらにマントーの脚本が映画化されないという事態もあり、ついに移住を決意した様子が映画で描かれていました。
ボンベイにいる親友からの手紙も読もうとしないマントー。
「今や僕のボンベイは別の国。父も母もそこに眠っているのに」という言葉が、ぐさっと胸に刺さりました。
マントーの小説は性や人間の心理描写が猥雑だとして、何度も裁判沙汰になります。弁護士が手を引き、あるがままを表現したいだけと自己弁護するマントー。
心が折れ、酒浸りになり、ついには肝臓を悪くして早死にしてしまうのです。
どんな状況にあっても夫を支え続けた妻サフィアの気持ちを思い、涙。
映画の余韻に浸る中、ナンディタ・ダース監督が登壇。女優でもある彼女、華奢で可愛らしい方で、どこにこんな重厚な映画を作るエネルギーを秘めているのかとびっくりしました。
写真:関係者席にいらした村山和之さんから提供していただきました。
スピーチは、会場からの要望でヒンディー語で行われました。
ナンディタ・ダース監督は、ウルドゥー語で書かれたマントーの小説のヒンディー語訳全集を丹念に読み解いて映画化されたとのこと。
自身が話すよりも、会場からの質問を受けたいとマイクを会場に委ねました。
この質疑応答の模様は、いずれ外語大のウルドゥー専攻のサイトに掲載する予定とのことですので、ここでは私が留めておきたい監督の言葉を披露しておきます。
マントーが色々な困難に遭いながら、立ち向かって書き続けたことを伝えたいと思いました。
映画を観る人によって捉え方が違うと思います。観る人自身がどういう人生を生きてきたかで観る目も違うと思います。単に映画がいいか悪いかでなく、映画を通じて話し合いが始まることを願っています。
もし、今の時代にマントーが生きていたら「表現の自由があるのに、皆、なぜ声をあげようとしないのか?」と言うのではとも。
エンドロールで歌われる「Bol(話せ)」は、ファイズ・アフマド・ファイズの有名な詩とのこと。
麻田豊氏による「できるだけ原文に沿った試訳」をこちらに掲載させていただきます。
話せ 君の唇は自由なのだから
話せ 舌はまだ君のものだから
君のすらりとした身体は君のものだから
話せ 命はまだ君のものだから
見よ 鍛冶屋の店の中を
炎は燃え盛り 鉄は真っ赤
南京錠の口が開き始めた
ひとつひとつの鎖の輪が解けた
話せ この短い時間で十分
身体と舌が死に絶える前なら
話せ 真実はまだ生きている
話せ 言うべきことは言うのだ
監督は13日間、日本に滞在予定です。
ナンディタ・ダース監督の登壇するワークショップもあります。
◆ワークショップ「現代インド女性をめぐる問題:女優として、活動家として」
2019年7月9日〈火〉 18:00開映(17:45開場)
場所:東京外国語大学 研究講義棟1階100
登壇:ナンディタ・ダース監督
使用言語:英語/参加費無料/先着順/申込不要/定員60名
*****
帰り道、印パ分離で故郷を離れなければいけなかった多くの人たちのことに思いを馳せました。トルコとギリシャの住民交換も然り。世界の各地で、どれだけ多くの人が政治的要因の犠牲になったことでしょう。
私は父の転職で、15歳の時に神戸から東京に引っ越しました。今でも心は故郷の神戸に・・・ 政治的なことで自分の意志でなく故郷を離れた人たちと状況は違うけど、気持ちわかります。
東京外国語大学での上映会情報は、こちらで!
◆TUFS Cinemaウェブサイト
https://www.tufscinema.jp
2019年07月04日
東南アジアの巨匠たち オープニング(白)
7月4日(木)
「響きあうアジア2019 東南アジアの巨匠たち」オープニングセレモニーが有楽町のスバル座で開催されました。
3日のシンポジウムのゲスト、ガリン・ヌグロホ監督、ブリランテ・メンドーサ監督、エリック・クー監督に加え、ヌグロホ監督の長女のカミラ・アンディニ監督、ナワポン・タムロンラタナリット監督、安藤裕康氏(国際交流基金理事長)、久松猛朗氏(東京国際映画祭フェスティバル・ディレクター)が出席しました。
おひとりずつのご挨拶の後、スペシャルゲストとしてミャンマー出身の森崎ウィンさんが登場。東南アジアを代表する監督たちと握手したウィンさんは、「アジア各国の映画に出るのが夢。東南アジアの魅力をもっと伝えられる立場になれるよう頑張りたい」と語り、ちょうどドラマ撮影中の深田晃司監督からの伝言も披露しました。
その後上映のガリン・ヌグロホ監督の『メモリー・オブ・マイ・ボディ』を全く予備知識なしで観て、男性の身体の美しさ色っぽさに驚きました。身体そのものと、動きの艶やかさときたら!ヌグロホ監督はまさにその美しさを描くことにチャレンジしたのだとトークで聞きました。そうそうそう、美しかったんです!監督の思うつぼにハマっておりました。
昨年『クジラの島の忘れもの』で取材して以来、ウィンさん担当は(白)となっております。うふふ。写真を一枚貼っておきます。歌ってるみたいに見えますね。7人体制になったPRIZMAXのボーカルのほか、今は深田晃司監督の演出でメーテレ(名古屋テレビ)のドラマ「本気のしるし」(原作:星里もちる)を撮影中。
★石坂健治プログラミング・ディレクターが編著者をつとめる『躍動する東南アジア映画〜多文化・越境・連帯〜』(論創社)が刊行されました。スバル座ロビーでも販売されていたので、手に入れてきました。2160円のところ、税金分をサービスした特別価格2000円。(白)
「響きあうアジア2019 東南アジアの巨匠たち」オープニングセレモニーが有楽町のスバル座で開催されました。
3日のシンポジウムのゲスト、ガリン・ヌグロホ監督、ブリランテ・メンドーサ監督、エリック・クー監督に加え、ヌグロホ監督の長女のカミラ・アンディニ監督、ナワポン・タムロンラタナリット監督、安藤裕康氏(国際交流基金理事長)、久松猛朗氏(東京国際映画祭フェスティバル・ディレクター)が出席しました。
おひとりずつのご挨拶の後、スペシャルゲストとしてミャンマー出身の森崎ウィンさんが登場。東南アジアを代表する監督たちと握手したウィンさんは、「アジア各国の映画に出るのが夢。東南アジアの魅力をもっと伝えられる立場になれるよう頑張りたい」と語り、ちょうどドラマ撮影中の深田晃司監督からの伝言も披露しました。
その後上映のガリン・ヌグロホ監督の『メモリー・オブ・マイ・ボディ』を全く予備知識なしで観て、男性の身体の美しさ色っぽさに驚きました。身体そのものと、動きの艶やかさときたら!ヌグロホ監督はまさにその美しさを描くことにチャレンジしたのだとトークで聞きました。そうそうそう、美しかったんです!監督の思うつぼにハマっておりました。
昨年『クジラの島の忘れもの』で取材して以来、ウィンさん担当は(白)となっております。うふふ。写真を一枚貼っておきます。歌ってるみたいに見えますね。7人体制になったPRIZMAXのボーカルのほか、今は深田晃司監督の演出でメーテレ(名古屋テレビ)のドラマ「本気のしるし」(原作:星里もちる)を撮影中。
★石坂健治プログラミング・ディレクターが編著者をつとめる『躍動する東南アジア映画〜多文化・越境・連帯〜』(論創社)が刊行されました。スバル座ロビーでも販売されていたので、手に入れてきました。2160円のところ、税金分をサービスした特別価格2000円。(白)
2019年07月03日
響きあうアジア2019 東南アジアの巨匠たち
7月3日(水)
池袋の東京芸術劇場ギャラリ―1にて、「映画分野における日本と東南アジアの国際展開を考える」と題したシンポジウムがありました。
※敬称略
第1部 16:00〜17:30
「映画分野における次世代グローバル人材育成について」
登壇者:安岡卓治、藤岡朝子、市山尚三
モデレータ:池田高明
第2部 18:00〜19:30
「映画制作におけるコラボレーションの未来図」
登壇者:エリック・クー、ブリランテ・メンドーサ、ガリン・ヌグロホ(写真左から)
モデレータ:石坂健治
こちらの第2部のみ参加しました。いつもは通訳さんが後ろに控えているのですが、同時通訳が聞ける機器(イヤホンは耳掛け)が配られました。石坂さんから投げかけられる質問によどみなく答える監督お三方、メモが間に合わないほどでした。中身たっぷりです。詳細はまた後程。
4日(木)よりの上映スケジュールはこちらでお確かめください。(白)
★長いシンポジウムの内容をまとめた記事が国際交流基金のページにまとめられていました。
第1部 こちら
第2部 こちら
池袋の東京芸術劇場ギャラリ―1にて、「映画分野における日本と東南アジアの国際展開を考える」と題したシンポジウムがありました。
※敬称略
第1部 16:00〜17:30
「映画分野における次世代グローバル人材育成について」
登壇者:安岡卓治、藤岡朝子、市山尚三
モデレータ:池田高明
第2部 18:00〜19:30
「映画制作におけるコラボレーションの未来図」
登壇者:エリック・クー、ブリランテ・メンドーサ、ガリン・ヌグロホ(写真左から)
モデレータ:石坂健治
こちらの第2部のみ参加しました。いつもは通訳さんが後ろに控えているのですが、同時通訳が聞ける機器(イヤホンは耳掛け)が配られました。石坂さんから投げかけられる質問によどみなく答える監督お三方、メモが間に合わないほどでした。中身たっぷりです。詳細はまた後程。
4日(木)よりの上映スケジュールはこちらでお確かめください。(白)
★長いシンポジウムの内容をまとめた記事が国際交流基金のページにまとめられていました。
第1部 こちら
第2部 こちら