2019年08月29日

『この星は、私の星じゃない』完成披露試写会に行ってきました(暁)

2019年 10月26日(土)から渋谷ユーロスペースで公開される、『この星は、私の星じゃない』の完成披露試写会に行ってきました。

2019年7月3日(水)会場:ユーロライブ
上映終了後に原一男監督と田中美津さんによるトークライブ
 (原一男監督:『極私的エロス・恋歌1974』『ゆきゆきて、神軍』『全身小説家』『ニッポン国VS泉南石綿村』などで知られる映画監督)
@konohoshi2019

『この星は、私の星じゃない』
 監督:吉峯美和

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久高島へのフェリーで

この作品は1970年代初頭、「女性解放」を唱えて始まった日本のウーマン・リブ運動を牽引した田中美津さんの歩んできた道、鍼灸師として働く姿、そして、沖縄に通う彼女の今を4年に渡り追ったドキュメンタリー映画。吉峯美和監督はNHK番組制作の際に田中さんを取材したことが、本作の製作動機になったと語っている。吉峯さんが初めて田中さんに会ったのは、2015年にNHKで放送された「日本人は何をめざしてきたのか 女たちは平等をめざす」という、戦後70年の女性史ドキュメンタリーの制作に映像ディレクターとして参加したのがきっかけだった。
「戦後、活躍したいろいろな女性の方にお目にかかったのですが、田中美津さんはその中でも特別で、強く心に残りました」と田中美津さんに魅力を感じ、映画化を考えたそう。

1970年、ビラに書いた「便所からの解放」が多くの女性の共感を呼び、日本におけるウーマンリブ運動を牽引した田中美津さんはウーマンリブ運動のカリスマ的存在だった。昨今、話題になっている“Me Too運動”の先駆けともいえる。女性が「母性=母」か「性欲処理=便所」の二つのイメージに分断されているととなえ、その解放の呼びかけに「便所からの解放」という言葉が使われた。
「便所からの解放」とは、家庭、性産業、学生運動、社会運動など、社会の中で、男性の性欲処理の対象とされていた女性たち。自尊心を取り戻し、それらからの解放を訴えた彼女の「便所からの解放」は、当時、良くも悪くも時代を象徴する言葉だった。当時高校生だった私はメディアなどから悪意を持って伝えられる「便所からの解放」の言葉を見て「何を言っているの、この人たち」とリブの人たちに反発を感じていた。しかし、その後リブの女たちと知り合い、直接話を聞いて納得したという経験がある。主婦と性産業で働く女性たちは、こういう男社会の意識の中で分断されていて、お互いを敵のように思っていたところもあった。

日本でウーマンリブ運動が始まった1970年代当時は、女性のあり方について、儒教などの影響で「女性は子供のときは父親や兄に従い、結婚したら夫に従い、年老いた後は子(息子)に従うのがよい」という考え方が根深く残っていて、「女性は男性のいうことを聞いていればよい」とか、「結婚したら女性は家庭に入り、家で家事と子育てに従事するのがよい」という考え方があたり前だった。
そういう考え方に反発する女性も多かったが、そんな中、田中さんの「自分の思いに忠実に生きる」「ありのままの自分でいい」「女性自身の思いを大切にして、他者からもそういう生き方が尊重されるべき」というような主張は、多くの女性たちの共感を得た。今ではこういう考え方はあたり前になっているが、当時はそういうことを言うと「女らしくない」「女らしく」などと釘をさされたりした。

田中美津さんはウーマンリブ運動の先駆者となり「ぐるーぷ闘うおんな」や「リブ新宿センター」を設立。同センターは女性の駆け込み寺として、中絶や避妊などの相談センターとしても兼ねていた。こうした活動の中で勇ましい美津さんというイメージがあったけど、ほんとうは体が弱かったらしい。そういうこともあって鍼灸師になったようだ。1975年の国際婦人年メキシコ会議の時にメキシコに渡り、数年滞在した後、帰国。帰国後から、76歳の現在まで鍼灸師をしている。ほかにも講演や執筆、ライフワークでもある沖縄の基地問題に精力的に取り組む姿など、今なお忙しい日々を送っている。
特に今、力をそそいでいるのが沖縄の問題。足しげく沖縄に通っているようだ。きっかけは、嬉野京子さんの「ひき殺された少女(1965年)」の写真を見たことと、この映画で語っていた。私も1970年頃、この写真を見て、米軍に占領されている沖縄の現実を知ったけど、このドキュメンタリーの中で沖縄の人の中には、この写真を見たくないという人がいるということを知った。それだけ沖縄の人の心にグサリと現実を突きつける写真ということだろう。美津さんは辺野古へと通い、支援活動を続けている。その活動も紹介されている。辺野古の美津さんの姿は活動家としての顔を見せていたけど、久高島を訪ねる船上の美津さんの姿は、遠くニライカナイを見つめているようだった。

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今まで田中美津さんのことは、活動家としての部分しか知らなかったけど、この作品ではウーマンリブの活動家だけではない生活者としての美津さんの姿も映し出されていた。そして、鍼灸師として仕事や、自宅で息子さんと接する姿など、これまで知ることのなかった美津さんの姿を観ることができて、私としてはとても興味深かった。
この完成披露試写会は、クラウドファンディングで支援した方たちを中心に行われ、あの頃、リブ運動に参加した人たちも大勢参加していた。会場はほぼ満員。私としては見知った顔があちらこちらに。
上映会の後、原一男監督とのトークセッションがあったけど、これまたバトル状態。
二人のかみ合わないトークに苦笑い。私自身は、田中美津さんの活動家としての姿だけでなく、日常の姿や日々の暮らしなどの映像、息子さんも出てきて、彼女のそういう暮らしを見てほっとしたのだけど、原監督は活動家としての美津さんの姿だけを観たかったらしい。
私は原監督の『極私的エロス・恋歌1974』を観ていないけど、これは原監督の以前の恋人の生き様や出産光景などを追った作品とのことだけど、この相手の女性、武田美由紀さんは、なんとリブ新宿センターで活動していた女性で、田中さんたちの仲間だったとのこと。この作品を巡っても、やはり二人の見方が違って意見がかみ合わない。そして、決定的だったのは、彼女を「ウーマンリブのリーダー」という視点で見ていたこと。この運動に参加した女性たちは、男たちの運動の中の、頂点にリーダーがいてピラミッド型になっている構造に反発を感じていたので、そういう視点で美津さんを見たことはなかった。私もこの考え方を知ったときなるほどと思った。この時は会場からもブーイング。男の考え方と女の考え方の違い、発想の違いを久々に感じた。

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パワフルウィメンズブルースを歌う

私とウーマンリブというか女性解放運動との出会いは、1975年の国際婦人年だった。会社に勤めて5年目、日々の暮らしや会社の仕事の中や仲間との人間関係で生き難さを感じていた。家族からは「女らしくしろ」と言われ、会社では「女のくせに」と言われもんもんとしていた。そして迎えた国際婦人年。いろいろな女性解放のグループを知った。
実はウーマンリブの活動については、それまで反発しかなかった。当時、リブの女たちはブラジャーを焼き払うという行動などを、エキセントリックにマスコミが報じていて、その突飛な行動のわけなどはちゃんと伝わらず、「何やっているの彼女たち」みたいな感じだった。でも、その彼女たちと知り合い「目からウロコ」だった。女のくせに、女らしくから、自分のために自分らしくへの解放や、体を締め付けるものからの解放とか、その行動の元にあるものを知ってからは、自分らしく生きていいんだと、彼女たちに共感し生きてきた。彼女たちに出会わなかったら、自分の生きたいようには生きてはこられなかったかもしれない。
そして、この映画を観てなつかしかったのは、「パワフルウーマンブルース」を久しぶりに聴けたこと。この歌は当時、いろいろな集会で歌ったり踊ったりしていて、とても勇気をもらった曲だった。でも田中美津さんが作った歌だとは知らなかった。今回、この作品で知った。また美津さんが沖縄、辺野古に通っていることも知らなかった。彼女が今も、行動する人であることが心強かった。
私は1978年頃、新宿にあった悠文社という写真製版の会社に勤めていた。そこに、新宿リブセンターにいた米津さんが製版を依頼しに来ていたのだけど、その米津さんもこの作品に出ていた。大きなバイクに乗って颯爽とやってきていたけど、あの頃はまだ、大きなバイクに乗っている女の人は少なかったので、そんな彼女のことを「かっこいい!」と思っていた。その彼女の元気な姿も見ることができて嬉しかった。上映会の後に、その米津さんとも会えた。でも、今回調べてみたら、1978年頃はすでにリブ新宿センターは活動を休止していたことを知った。あの頃は、同じ場所で印刷所のようなことをやっていたのかな。今度、会ったら聞いてみたい。
上映会の後の打ち上げにも参加したけど、そこの場で若い人と出会った。その時に「ウーマンリブ運動はいつ終わったの?」と言われ、ふと「終わったのかな?」と思った。そして「女たちの運動は終わったのではなく、新しい形になって現在につながっているのでは」と答えた。あの頃掲げていた「自分らしく生きたい」ということを、自分の生活の中に取り入れて実践して生きてきた。あの頃の仲間は、そういう風に生きてきた人が多い。当時言われていた「結婚して、夫や子供のために生きるのが女の幸せ」ということを押し付けられることも、ほとんどなくなったし、少しは女性にとって生きやすくなっているのではとは思う。でも、まだまだ女性であることが不利なことは多い。これからも、まだ闘いは続く。


『この星は、私の星じゃない』
2019年10月26日(土)〜渋谷ユーロスペースにて公開予定
あいち国際女性映画祭2019(9月5日 ウイルホールで10:00から上映)
(製作・配給:パンドラ+ BEARSVILLE)
公式サイトhttp://www.pan-dora.co.jp/konohoshi/

ウーマンリブ運動関連 ドキュメンタリー作品

『ルッキング・フォー・フミコ 女たちの自分探し』
  栗原奈々子監督 1993年
 シネマジャーナル31号掲載(31号の在庫がないためHPに掲載)
 http://www.cinemajournal.net/bn/31/talk.html

『30年のシスターフッド ウーマンリブの女たち』
  山上千恵子・瀬山紀子監督 女たちの歴史プロジェクト 2004年
 シネマジャーナル64号で紹介

『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』2015年 松井久子監督 
 シネマジャーナル93号で松井久子監督インタビュー掲載
 シネマジャーナルHP 松井久子監督インタビュー記事
 http://www.cinemajournal.net/special/2015/feminism/index.html

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2019年08月18日

「ラストエンペラー天津脱出」に惹かれて日本郵船歴史博物館へ  (咲)

8月15日、来週開く高校の担任の先生の「めざせ白寿の会」の打ち合わせで横浜へ。
午後早めに終わるのがわかっていたので、何か面白そうな催しはないかと検索。
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日本郵船歴史博物館の企画展「淡路丸船長の日記 〜ラストエンペラー天津脱出〜」が気になって行ってみました。

ラストエンペラーといえば、清朝最後の皇帝溥儀。
映画は、ベルナルド・ベルトルッチ監督の『ラストエンペラー』(1987年製作、日本公開1988年1月23日)が有名ですが、私は本作が公開される前年に観た『火龍』(1986年製作、日本公開1987年9月)の方が強く印象に残っています。
『ラストエンペラー』で溥儀を演じたジョン・ローンは、実に美しかったけれど、『火龍』で溥儀の後半生を演じたレオン・カーフェイ(梁家輝)の方が、より溥儀に近いかなと。歴史に翻弄された愛新覚羅溥儀の人生を、食い入るように観たのを思い出します。

今回の特別展では、1931年11月に天津脱出をしなければならなかった溥儀を乗せた「淡路丸」の船長の日記が展示され、当時の秘話が添えられていました。

今回、初めて日本郵船歴史博物館を訪れたのですが、特別展に至る常設展が面白くて、なかなか特別展にたどり着けませんでした。
実は、私の母方の祖父は、昭和10年頃まで大阪商船の船長として外国航路を回っていたので、展示を見ながら、祖父がどんな風に船上で仕事をしていたのだろうと思い巡らしました。
祖父は、家族と過ごすためか、台湾の基隆港の水先案内人に転職。昭和20年、終戦前に台湾で病に倒れ、亡くなってしまいました。神戸に家があったので、祖母や母はすぐにも帰りたかったと思うのですが、とても帰れる状況でなく、終戦後、9月に引き揚げてきました。
母からよく、「五郎さん(祖父のこと)は、戦争が終わったら、豪華客船で世界一周に連れてってあげるねと言ってたのに・・・」と聞かされました。常設展には、戦争中に客船が空母に改造されたことも展示されていました。中には、お客様を乗せないうちに、出来立ての客船の内部が壊された例も。悲しい歴史です。

船長や水先案内人の給与はかなり高かったそうで、神戸の家も贅を尽くしたものでした。ブラジルの蝶で出来た絵や、ジャワ更紗(私が生まれた時、おくるみに使っていた)など、世界各地のものが普通に家にあったのを思い出します。
私が世界に目が向いたのも、祖父のDNAかなと。
いい午後のひと時でした。


日本郵船歴史博物館
https://museum.nyk.com/index.asp




posted by sakiko at 20:48| Comment(0) | 日々のできごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月12日

ちょっと勝手が違った夏コミケ。 来年はGWコミケですって (咲)

8月10日(土)、抜けるような青空の中、恒例の夏コミケへ。
副店長のミッキーさんから、7時半過ぎ、「こんなに空いてる電車(ゆりかもめ)は初めて」とのメール。ちょうど新宿駅のホームにいたのですが、確かに、りんかい線も空いてました。

実は、前日の9日(金)夜7時のニュースで、「今日から東京ビッグサイトで恒例のコミックマーケットが・・・」というので、えっ?と思ったのです。というのも、10日が初日と思い込んでいたから。
案内をちゃんと読んでない私。 お恥ずかしい。
駅からの導線も、いつもとちょっと勝手が違うし、入口で通行証と引換えに、10日と書かれたブルーのリストバンドを渡され、何、これ?と。

シネジャの設置場所 西地区 ”え”ブロック 30b に到着。
暑いのを覚悟していたら、意外に冷房が効いている♪

隣りは、何回かお隣りだったインド映画のマサラ上映を楽しむ男性。
その方から事情を教えていただきました。
今年は東京オリンピックの準備で、東ホールが使えないので、会場が狭くなり、例年の3日間ではなく、4日間の開催になったとのこと。それでも、例年の75%しか参加サークルを受け入れられないので、規模は縮小。
一般入場者は、これまで無料だったけど、一日ごとに500円でリストバンドを購入。
参加サークルの人は、通行証と引換えに貰うことになっているのだと判明しました。

思えば、来年はちょうど東京オリンピックの開催中の時期。
コミケは、前倒しで、GW(2020年 5月 2日 〜 5日)に開催されることが決まっていることも教えていただきました。
来年は、4月1日の香港でのレスリー追悼記事を遠藤智子さんに速攻で書いていただいて、4月10日には入稿しないと・・・と、来年発行の103号のことが頭を駆け巡りました。

さて、今回の夏コミケの顛末です。
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セッティングして、ミッキー副店長と最近観た映画についておしゃべりしていたら、以前にお隣で親しくなった映画本を出している男性の姿が。
このところ、ガン(銃)の本の売れ行きがいいからか、壁を背にした特等席をあてがわれて戸惑ってるとのご挨拶。映画本の方は、お父様が入院したり、印刷屋さんが廃業したりで、滞っているとのこと。

10時。開場のアナウンス。静かに拍手が広がる大好きな時間。
あまり人が流れてこない・・・と、心配しましたが、程よく覗いてくださる方がいて、ほっ!
いつも来てくださる香港映画好きの奥さまも11時前にいらしてくださいました。
続いて、写真家の島津美穂さん。今年も4日間ボランティアスタッフでコミケを支えているそう。
彼女から、ちょっと寂しいお知らせを聞いてしまいました。レスリー・チャン存命中から、ずっと毎月のように開かれていた会が、去年の12月を最後に開かれてないというのです。命日とお誕生日に贈る千羽鶴は、続けているとのことなのですが、主宰する人たちも、いろいろと事情が出来たのでしょう。

そんな中、なんと、レスリーが好きという男性が・・・
表紙の「追悼 張國榮 (レスリー・チャン)」に気づいてくださったのです。
なんといっても、『欲望の翼』のヨディが好きとのこと。
追悼記事の載っているバックナンバーも、「お金あるかな〜」と言いながら、すべて購入してくださいました。レスリーに多謝♪ 遠藤智子さんに多謝♪

インド映画好きの方のためにと、公開中の『あなたの名前を呼べたなら』『シークレット・スーパースター』のチラシのほか、インド映画掲載号を明示した案内を置いていたのですが、やはり効果ありました。来年は、頑張ってインド映画特集も組まなくちゃ。

ヨコハマ・フットボール映画祭の実行委員長さんで、東京国際映画祭のスタッフの方も、去年に引き続き立ち寄ってくださいました。

そんなこんなで、1年ぶりのコミケも無事終了。

ご購入くださった皆さま、お声をかけてくださった皆さま、今年もどうもありがとうございました。
また来年、5月に♪




posted by sakiko at 18:57| Comment(0) | イベント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月07日

済州島の旅(2)西帰浦で画家イ・ジュンソプを偲ぶ  (咲)

7月30日(火)
済州島滞在3日目。有無を言わせず、私の希望で西帰浦(ソギポ)へ。
酒井充子監督の映画『ふたつの祖国、ひとつの愛 〜イ・ジュンソプの妻〜』(2014年12月13日公開)で知った非業の死を遂げた画家イ・ジュンソブが、日本人の奥様と二人の息子さんと共に、1年弱暮らしたのが西帰浦。
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一家が間借りした茅葺の家(復元)のそばには、イ・ジュンソブ美術館も建てられているので、ぜひ訪れたいと思っていたのです。

去年7月、釜山を訪れた時、偶然にもイ・ジュンソブ一家が済州島に渡る前、1か月過ごした汎一洞に宿泊したということもありました。
その時の日記 
釜山の旅 2日目朝 『友へ チング』と国民的画家イジュンソプゆかりの汎一洞を歩く (咲)

イ・ジュンソプについて紹介しておきます。

李仲燮(イ・ジュンソプ)
1916年9月、日本統治下の朝鮮半島で富裕な農家の次男として生まれる。
1936年20歳のとき、東京の帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)に入学。その後、文化学院美術部に移り、三井財閥企業の役員を父に持つ山本方子と出会う。1943年、ソウルで開かれた美術展のために帰国するが、戦況が悪化し日本に戻れなくなる。故郷の元山に帰ったジュンソプは、方子を呼び寄せて結婚。1950年朝鮮戦争が勃発し、家族で釜山、済州島へと避難する。1952年36歳のときに妻子3人を日本へ送還。翌年、特別滞在許可を得て1週間足らず日本に滞在するが、これが家族との最後の別れとなる。
1955年アジアの芸術家として初めてニューヨーク近代美術館に作品が所蔵される。しかし満を持して開催した個展は、銀紙画を春画とみなした当局から撤去命令がでる。この頃から栄養不良や拒食症等で衰弱していき、1956年9月6日、誰にも看取られずに息を引き取った。享年39歳。
1970年代にジュンソプの残した作品群への評価が高まり、一枚の絵が最高35億ウォン(約3.2億円)の値がついた。現在では、美術館が建てられ、韓国の国民的画家と呼ばれている。

さらに詳細は、下記をご覧ください。
『ふたつの祖国、ひとつの愛 〜イ・ジュンソプの妻〜』
酒井充子監督インタビュー

さて、イ・ジュンソプを偲ぶ旅に戻ります。
新済州市のホテルメゾングラッド近くの「恩南洞」バス停から、360番のバスでバスターミナルへ。5番乗り場から、281番のバスに乗車。

バスターミナルの観光案内所で、282番のバスでも行けると教えてもらったのですが、282番のバスの運転手さんに「イ・ジュンソブ?」と聞いたら、運転手さんと、一番前に座っていた年配のご夫婦が声をそろえて「違う。あっち」(という意味のハングルだと思う!)と、281番の乗り場を指してくださいました。
私はハングルはできないので、イ・ジュンソブの名前を言っただけなのですが、わかってくれました。さすが、国民的画家!

済州島を北から南に山越えして、1時間ちょっとで、西帰浦の東門ロータリー到着。
バス停のちょっと手前に、「イ・ジュンソブ通り」と日本語も併記された案内板があり、間違いないと、ほっ!
バス停そばの文房具屋さんで、方向を確認。市場を目指していけばいいとのことでした。
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市場のアーケードの入り口付近
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その向かい側が、1996年にイ・ジュンソブ通りと名付けられた通りのスタート地点。
ここから、坂を下っていきます。
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イ・ジュンソブの絵のモチーフが道にはめ込まれています。
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マンホールもイ・ジュンソブ
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排水溝?も
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壁には、絵の複製

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イ・ジュンソブ美術館への道
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イ・ジュンソブ美術館

中の写真は撮れなかったのですが、1階入って左手がイ・ジュンソブの生涯をたどる展示。説明はハングルと英語。
イ・ジュンソブが家族に宛てた日本語の手紙や、奥様の山本方子(やまもとまさこ)さんからの手紙も展示されていて、それにはハングルや英語の訳はなく、日本人には読めるものの、それでいいのか・・・と思いました。
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美術館3階のテラスからは、西帰浦の町とその向こうに島が見えました
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美術館から程近いところにイ・ジュンソブ一家が間借りしていた茅葺の家。1997年に復元されたものだそうです。
一番端の扉を入ると、手前に竈。奥に3畳弱の土間のような部屋。
ほんとに狭くて、暗くて、こんなところで一家4人が暮らしていたのかと涙。
でも、奥様によれば「幸せなとき」だったとのこと。

39歳で非業の死を遂げたイ・ジュンソブ。
かつて過ごした地に、美術館が出来、そこに至る道が「イ・ジュンソブ通り」と名付けられるなどとは思いもよらなかったことでしょう。
歴史に翻弄されたイ・ジュンソブの人生。
せめて、存命中に絵がもっと評価されて売れていれば、39歳という若さで命を落とすこともなかったのではと、涙です。

10歳の妹の孫の男の子も、彼の人生を知って、ちょっとしんみりしていました。
いい勉強になったのではないでしょうか。

と思ったのも束の間、「どこかで休みたい」と言われてしまいました。
私も、暑かったので、パッピンス(かき氷)が食べたいなと。
それなのに、なかなかお店がない!
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思わず「パッピンス!」と叫んだら、なんと、パッピンスの写真がパン屋さんの表に・・・
無事、いただきました。
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出てきたときに写真を撮り忘れ、少し食べた無残な姿ですみません・・・

その後、アーケードの市場へ。
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帽子屋さんに、なぜかヒジャーブ(イスラームの女性が髪の毛を隠すためのスカーフ)が・・・
こんなところにも、ムスリマの観光客が来るのでしょうか。
お店の人に聞いてみたかったけど、ハングルができないので諦めました。

あ〜 どこへいっても、イスラームにかかわるものが気になる私!







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2019年08月04日

済州島の旅(1) イ・ビョンホン贔屓の運転手さん   (咲)

7月28日(日)〜31日(水)の3泊4日で済州島に行ってきました。
妹がエアーとホテルのパッケージを予約してくれて、夏休みに入った妹の孫の小学校5年生の男の子を連れての旅。
ばばぁ二人に文句言わずについてきてくれて、ありがたいことです。もっともママの目がなくて、ゲームし放題なのが嬉しいらしい。

空港に着いて、まず観光案内所へ。
お目当てのイ・ジュンソプ美術館も、4・3記念館も、いずれもパンフレットはありませんでした。地図やバスの路線図は確保。

ホテルは新済州市にあるメゾングラッド。地図をみたら、数年前に来たときと場所が同じ。以前は済州グランドホテルでした。繁華街にあるので便利。
翌日のお昼に豚肉料理を食べることになっていたので、着いた日の夜は牛肉にしようと、町中の観光案内所でお薦めのお店を教えてもらいました。でも、行ってみたら、広いお店でちょっと気が向かなかったので、途中で見かけた落ち着いた佇まいの「安東牛肋」へ。
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これは大正解。6時前で空いていたのですが、後からどんどん地元の家族連れがやってきました。お肉も柔らかくて美味しいので追加もしたのに、3人で7500円位。

29日(月)は、妹がKONESTのツアー「東側+牛島コース」を予約してくれていました。
9時にホテルのロビー集合というので行ってみたら、なんのことはない、私たち3人だけ。日本語の出来るタクシーの運転手さんが出迎えてくれました。
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まずは、世界唯一の平地噴火口「サングムブリ」
広々として気持ちのいい大自然。
映画『恋風恋歌』やドラマ「結婚の女神」のロケ地だそうです。
遠くに、韓国で一番高いハルラ山が見えました。

次に、済州民俗村へ。
かつての中心地で役所もあったところ。
古い民家が百軒以上残されていて、今も人が住んでいます。
住民の女性が説明をしてくださいました。
済州島では男は働かず、複数の妻が働き詰めだったそう。(まったく〜)
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中でも水汲みは重要な仕事。甕を背負った像をあちこちで見かけました。
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城壁の向こうは、位の高い人たちが暮らすエリア
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古い民家を利用した食堂でランチ 豚肉の味噌炒めとチヂミ

フェリーに乗って牛島(ウド)へ
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車に乗ったままフェリーに。外に出ようとしたら、暑いから車に乗ったままでと言われ、乗車したまま牛島へ。15分程で到着。なんだか島に渡った気がしませんでした。
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牛島は、『連理の枝』『イルマーレ』をはじめ、映画の撮影地としても有名・・・とのことなのですが、さてはて・・でした。
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風光明媚な崖。
妹がかつて住んでいた隠岐・西ノ島の魔天崖みたいと!
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名物のピーナッツをかけたソフトクリームはあっさりした味。
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帰りは、車から出て、船の最上階へ。やっぱり、風をあびながらじゃないと!
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城山日出峯。ここも風光明媚。牛島がすぐ向こうに見えました。

帰路、運転手さんに「映画館で映画を観ますか?」と聞いてみました。
「いや〜映画は観ないね。もっぱらテレビで歴史ドラマ」との答えが返ってきました。
「チャングム、トンイ、オクニョなど、いいね」と。
でも、私が「オクニョのコ・スが好き」というと、「あの人、韓国人じゃないね。まるで外人」
ふ〜ん、そう見えるのか。

妹が、「ユ・ヘジンさんが好き」というと、
「あの人、演技はいいけど、顔が悪いね」
私が、「チョン・ウソンとイ・ジョンジェが好き」というと、
「チョン・ウソンねぇ・・(と、なぜか含み笑い!)、イ・ジョンジェはいいね。でも、今出てるドラマはつまらないから見るのをやめた」
「砂時計のイ・ジョンジェ、よかったですよね」と私。
「あれで有名になったからね。しゃべらないのにね。でも、砂時計、イ・ビョンホンがいいね。彼はハリウッドにも進出したしね。そうだ、映画といえば、『王になった男』は観にいったなぁ」
そうっか〜 運転手さん、イ・ビョンホンがお好きなのね。
普段行かない映画館にも行ってしまうのですから!

最近は、中国の歴史ドラマもよく見ているそう。
そんな話をしているうちに、帰りはあっという間にホテルに着きました。
運転手さん、誰かに似てると思ったら、キム・サンホさんでした!
一日、ありがとうございました。

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この写真では、キム・サンホさんに似てるかどうかはわかりませんが、こんな方でした!







posted by sakiko at 21:56| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする