2020年07月26日

『剣の舞 我が心の旋律』 世界に離散したアルメニア人に思いを馳せる (咲)

小学生の頃から、運動会などで慣れ親しんできた「剣の舞」。激しく打ち鳴らされる木琴の音で始まる勇壮な曲を作ったのが、ハチャトゥリアンというアルメニア人だと知ったのは、おそらく20代の頃。
ハチャトゥリアンの代表曲のように記憶されている「剣の舞」ですが、実はソ連当局の圧力で、たった一晩で書き上げた曲だったことを明かす映画『剣の舞 我が心の旋律』が、7月31日(金)より新宿武蔵野館ほかで全国順次公開されます。

『剣の舞 我が心の旋律』

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監督・脚本:ユスプ・ラジコフ

*物語*
1942年11月29日、第二次世界大戦下のソ連。モロトフ(現ペルミ)に疎開中のキーロフ記念レニングラード国立オペラ・バレエ劇場では、10日後に初演を迎えるバレエ「ガイーヌ」の準備に追われていた。作曲家アラム・ハチャトリアン(アンバルツム・カバニン)が、祖国アルメニアを思い書き上げた演目だ。
文化省のプシュコフ(アレクサンドル・クズネツォフ)が上演前の検閲にやって来る。プシュコフは完成した「ガイーヌ」の結末を勝手に変更し、最後に士気高揚する踊りをダイナミックに入れろと命じる。プシュコフは、かつてアラムと共に学んでいたが、音楽の才能がなくて共産党に傾倒した人物。衣装も振付も間に合わない。皆が不可能と訴える中、アラムは理不尽な要求に立ち向かう・・・


配給:アルバトロス・フィルム
公式サイト
シネジャ 作品紹介
★2020年7月31日(金)より、新宿武蔵野館ほか全国順次公開

ハチャトゥリアンは、「オスマン帝国によるアルメニア人虐殺を世界が傍観してファシズムが台頭した。無視しなければ、ユダヤの虐殺も防げた。このことを入れ込みたい」と語りますが、プシュコフは「今やトルコはソ連の友好国。昔のことは忘れろ。百年もすれば誰も覚えてない」と一蹴します。思いを直接には書けないと悟ったハチャトゥリアンは、プシュコフを満足させつつ、アルメニア人としての怒りや悲しみを根底にした曲を一気に書き上げたのです。

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c 2018 Mars Media Entertainment, LLC, DMH STUDIO LLC
映画の中で、回想場面として出てくる1939年のアルメニア訪問。アルメニア人の心の拠り所であるアララト山を眺めながら、老人が語りかけます。「25年前に先祖の墓も家も捨てて、砲弾の中、泣く泣く故郷をあとにした。あの山で死んだ者の分まで生きねば。忘れなければ、世界を腐敗から防げる」

ノアの箱舟が大洪水の後に流れ着いたとされるアララト山。今はトルコ共和国に所在しますが、かつてはアルメニア人の居住していた「大アルメニア」の真ん中に位置していた山。
アルメニア側からみると、大アララトが右側、小アララトが左側。山の向こうの東トルコのヴァン湖の側から見れば、逆になります。
ハチャトリアンが大雨の中、アララト平原を走っている時に、運転手が「これはヴァン湖の雨。聖なる水」と語りかけます。アララト山の向こうの故郷に思いを馳せる言葉に心を動かされます。
ハチャトゥリアンは、このアルメニア滞在で、祖国を追われたアルメニア人の苦悩を生涯のテーマにして世界に伝えたいと誓うのです。それはアルメニア人に限らず、全人類が平和に暮らせるようにとの願い。

アルメニア人が故郷を追われたのは、この20世紀初頭のオスマン帝国によることよりも、ずっと遡ります。12世紀に東ローマ帝国によってアルメニア王国が滅ぼされ、アルメニア人は世界中に離散。アルメニア人の6割は今のアルメニア共和国以外の場所で暮らしています。

ハチャトゥリアンは、1903年5月24日、ロシア帝国支配下にあったグルジア(現ジョージア)のティフリス(現トビリシ)でアルメニア人の家庭の4男として生まれています。
ハチャトゥリアンの祖先がいつグルジアに移住してきたのかは不明ですが、1915年から1916年にかけて東トルコの地を追われて命からがら逃げてきたアルメニア人の姿を、ハチャトゥリアンは子どもの頃に目の当たりにしているに違いありません。

私が初めてアルメニアに接したのは、1978年に訪れたイランのエスファハーンのジョルファ地区にあるヴァーンク教会(1605年創建)でのことでした。なぜ、ここにアルメニア人のコミュニティーがあるのか、あまり深くは考えませんでした。後にまたイランを訪れた時に、テヘランのアルメニア人宅を訪ねたことがあります。家ではアルメニア語で話していて、子どもたちは学校ではペルシア語で学ぶけれど、アルメニア語は別に学ぶ場所があると言ってました。その一家も、イスラーム政権下では、暮らしにくいのか、今はカナダに移住してしまいました。
それでも、イランにはまだちゃんと使われているアルメニア教会がいくつかあります。
テヘランのアルメニア教会に連れていってもらった時、アルメニア人の友人が入り口手前の碑の前で黙礼していて、何かと尋ねたら、アルメニア人虐殺への祈りでした。
トルコ国境に近いところにある黒の教会とも呼ばれる聖タデウス修道院を訪ねた時、今はひっそりとしているけれど、1年に1回、世界中からアルメニア人が集まると聞きました。

黒の教会にも近いトルコ国境のそばにある町マ―クーの町はずれからは、アララト山を眺めました。大アララトが右側、小アララトが左側に見えました。2005年のことでした。
翌年には、東トルコを旅して、トルコ側からアララト山を眺めました。
東トルコでは、各地で立派なアルメニア教会をいくつも観ました。観光用に整備された教会以外は、どこも廃墟になっていました。

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一番ショックを受けたのは、ヴァン湖近くの丘の上から眼下を眺めた時に、広大な森の中に大きな教会の廃墟二つを見たときのことでした。家は森に埋もれて朽ちていましたが、教会だけが、そこにアルメニアの人たちが暮らしていた証として存在していました。

東トルコの旅:スタッフ日記2006年9月第2週 2006/9/10(Sun)
http://www.cinemajournal.net/diary/2006.html#saki_turkey


最後に、オスマン帝国によるアルメニア人虐殺を描いた映画で、私が観たものを挙げておきます。

◆『ナーペト』
(ヘンリク・マリャン監督、1977年、アルメニア)
1920年代初頭に一族すべてを大虐殺で失った家長のナーペトがアララト谷の村にたどり着き、 やがて、やはり虐殺で家族を失った女性を娶り、心の平和を取り戻す話。
「アルメニア・フィルム・セレクション」(2006年8月開催)の中で上映されました。
http://www.cinemajournal.net/review/2006/index.html#armenia

◆『アララトの聖母』
(アトム・エゴヤン監督、2002年、カナダ)
アルメニア人の映画監督エドワード・サロヤンは、画家アーシル・ゴーキーの絵画をモチーフに、アルメニア人虐殺の悲劇を映画化を企画する。
サロヤン役をアルメニア人のシャルル・アズナブールが演じている。

◆『消えた声が、その名を呼ぶ』
(ファティ・アキン監督、2014年、ドイツ・フランス・イタリア・ロシア・ポーランド・カナダ・トルコ・ヨルダン)
http://cinemajournal-review.seesaa.net/article/431438237.html
トルコではタブーとなっているアルメニア人虐殺を背景に、ドイツ移民のトルコ人監督ファティ・アキンがタハール・ラヒムを主役に描いた映画。
喉を切りつけられて声を失いながらも、奇跡的に生き延びた男が、娘たちが生きていると耳にして、レバノンからキューバ、そしてアメリカのミネアポリスへと娘たちを探す果てしない旅に出る。


◆『THE PROMISE/君への誓い』
(テリー・ジョージ監督、2016年、スペイン・アメリカ)
第一次世界大戦中の1915〜16年にオスマン帝国統治下で起こったアルメニア人の悲劇を背景にした4人の男女の友情や愛憎を描いた壮大な物語
監督インタビュー
http://cineja-film-report.seesaa.net/article/456646172.html

posted by sakiko at 19:09| Comment(0) | 映画雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする