いよいよ、岩波ホール閉館の日が来てしまいました。
最終日に駆け付けることができなかったのですが、遠くから、最後の上映に思いを馳せていました。
一つの映画館がなくなるという以上に、大切な文化が消えてしまったと、ぽっかり心に穴が空いたようです。
閉館に先立ち、昨日、岩波ホールの広報担当の方から支配人の岩波律子さまのご挨拶が届きました。
今でしたら、ご挨拶を動画で見ることもできます。
いつか見られなくなるかもしれないと思い、全文を転載させていただきます。
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平素よりお世話になっております。
まもなく、7月29日をもちまして、岩波ホールは閉館となります。
閉館に際して、支配人の岩波律子よりご挨拶を申し上げますので、
下記リンクよりご覧ください。
https://www.iwanami-hall.com/topics/greeting/5323
これまで、当館の活動にご注目いただき、誠にありがとうございました。
ご理解ご協力いただけましたことに、深く感謝申し上げます。
7月末をもって、当館スタッフも退職となります。
末筆ではございますが、
これからのみなさまのご健康、益々のご活躍を心よりお祈り申し上げます。
今まで本当にありがとうございました。
矢本理子/田澤真理子
岩波ホール
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(岩波ホール 公式サイトより転載)
皆さま、こんにちは。岩波ホールの岩波律子でございます。私どもは今年の7月29日に閉館することになりました。そこで、本日は最後のご挨拶をいたします。
多目的ホール時代
岩波ホールは1968年2月に開館しました。当時、地下鉄が3線乗り入れることになる神保町に、ぜひ文化的施設を、という千代田区からの要請もあり、多目的ホールとしてスタートいたしました。2月9日のホール開きでご挨拶してくださった野上彌生子さんが、「小さな空間だからこそ、大きなところでは出来ない、質の高い催し物ができる」と仰って下さいました。開館時に総支配人に就任した野悦子が、フランスのイデックというパリ高等映画学院で映画を学んできたこともあり、当初は「映画講座」をはじめ、「学術講座」、「音楽サークル」、「古典芸能シリーズ」の4つの柱を中心に、様々な催しものを、日々、行っておりました。
総支配人野悦子
野悦子は、私の母の妹で、叔母にあたります。旧満州生まれの野は、当時は“大陸的”とよばれた、常識にとらわれない自由な発想ができる女性でした。日本女子大学を卒業後、東宝株式会社に入社し、映画を調査分析する仕事をしていました。現在のマーケティングにあたると思います。その際、映画が男性監督によってしか作られていないこと、女性の描き方が現実を反映していないことに疑問を抱いた野は、監督を目指そうとしましたが、日本では女性は監督の勉強ができないことが分かり、フランスに留学するのです。外貨持ち出し額にまだ制限があった、1950年代のことでした。フランスから帰国した後、映画監督を目指してテレビの脚本を書いたり、色いろと動くのですが、やはり女性ということで、なかなか上手くいかず、そんななか、岩波ホールが1968年に開館することになり、総支配人となったのです。
野は非常に好奇心が強く、また行動力のある女性でした。初期の多目的ホール時代の様々な催しものは、岩波書店の執筆者とともに、多くが野の人脈によって成り立っていたように思います。実際、映画上映のみならず、生涯にわたり、様々な仕事に携わった人でした。おかげで、そのもとで働く社員は、時に大変な目にあいましたが、岩波ホール以外の活動として、東京国際女性映画祭のゼネラルプロデューサーとして、多くの女性監督の作品を日本にご紹介したことを、一つの例としてあげておきます。
エキプ・ド・シネマ
1974年に、川喜多かしこさんからご相談があり、インドのサタジット・レイ監督の「大樹のうた」を上映することになりました。これが、岩波ホールが映画館としての活動を開始するきっかけとなった作品です。いま思うと、最初に上映した映画が、インドの作品であったことが象徴的であると思います。当時の日本の映画界をとりまく状況は、現在とは全く異なり、欧米の商業的な作品の興行が一般的でした。そこで、当初より、4つの目標を掲げて、世界の埋もれた名画を世に出す運動として、エキプ・ド・シネマを開始しました。
その目標とは
日本では上映されることのない第三世界の名作の紹介
欧米の映画であっても、大手興行会社が取り上げない名作の上映
映画史上の名作であっても、なんらかの理由で日本で上映されなかったもの、
または、カットされ不完全なかたちで上映されたものの完全版の紹介
日本映画の名作を世に出す手伝い
岩波ホールがこれまでに上映してきた作品リストを、いま改めて見てみますと、初期の10年間はヴィスコンティやベルイマン、フェリーニ、タルコフスキー、アンゲロプロス、ブニュエルといった、映画界の巨匠たちの名作を中心に上映していた気がいたします。その後、1980年代半ばからは、中南米やアフリカ、東欧など、作品の多様化が進みました。1980年代後半から1990年代にかけては、世はミニシアターブームだったわけですが、岩波ホールでは、中国や東南アジアの映画、老人問題、女性監督の作品がどっと増えた時代でもありました。代表的な監督としては、サタジット・レイ、アンジェイ・ワイダ、羽田澄子、黒木和雄などがあげられると思います。また、私の個人的な思い出としては、セネガルのウスマン・センベーヌ監督の作品を上映できたことを、大変光栄に思っております。また、ここ数年はジョージア映画祭を2回開催いたしましたが、過去には、ポルトガル映画祭や「自由と人権」国際映画週間など、色々な国や地域の映画を、映画祭という形式でご紹介しておりました。そういう訳で、1974年以降、今年の2022年7月まで、名作上映活動としては48年間続いたエキプ・ド・シネマですが、現在上映中の「歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡」まで、66の国と地域の274作品を上映してまいりました。
岩波ホールの資料について
さて、岩波ホールがこれまで上映してきた作品のパンフレットやポスター、また、私どもの活動を記録した広報誌である「友」についてですが、既に、国立映画アーカイブ図書室をはじめとして、東京や地方の幾つかの図書館や資料館などに収蔵していただくことになりました。今後、岩波ホールの軌跡について調べたい方がいらっしゃいましたら、ぜひ、ご利用いただければと思います。
以上、簡単ではございますが、岩波ホールのこれまでの活動について、お話しいたしました。多目的ホール時代を含めますと、54年間となりますが、これまで、私どもの活動を見守り、劇場に足を運んでくださった皆さまに、心より感謝申し上げます。
岩波ホール支配人 岩波律子 2022.7.27
1976年の春に会社の同期の男性にサタジット・レイの『大樹のうた』を観に連れてきてもらったのが岩波ホールを知るきっかけでした。その後、何度も通った岩波ホール。ほんとうにたくさんの素敵な映画をありがとうございました。 景山咲子 (写真撮影も)