2023年1月29日に北アルプス白馬乗鞍岳の天狗原東側斜面で発生した雪崩で外国人4人が雪崩に巻き込まれ、アメリカ人とオーストリア人のスキーヤー2人が死亡した事故。ネットや新聞の記事によると「雪崩が起きたのは白馬乗鞍岳天狗原の東側にある標高2100mの斜面で」とあるので、この場所は私が1985年頃から1991年頃の6年くらい、蓮華温泉への山スキー行きで通ったところあたりだと思います。当時は「栂池高原スキー場リフト最上部→天狗原→蓮華温泉」というルートで、栂池(つがいけ)から登り、アルプスの稜線(天狗原)に出ていたのですが、その稜線に近い斜面だと思います。当時はゴンドラリフトはなく、リフトを4本を乗り継いで、栂池高原スキー場の一番上からスキーを担いで登りました。そこから約2時間半登ると稜線に出るのですが、その登りの横に、この雪崩が発生した斜面があるのです。この斜面の横を登って稜線に出て、天狗原にたどりつき、そこから山の向こう側の蓮華温泉に滑り降りていたのですが、今回雪崩遭難が起こったあたりの斜面も2回くらい滑ったことがあります。広大で滑りでのある斜面でした。
今回、ここに書いたのは、私にとって何度も通った思い入れのあるスキー大滑降ができる場所でもあるし、雪崩事故が起きた現場は『土を喰らう十二ヵ月』のツトムが住んでいた家の窓から見えるところだったからです。スタッフ日記に詳しくこの映画のことを書きましたが、下記参照ください。
シネマジャーナルHP スタッフ日記
ディープな『土を喰らう十二ヵ月』案内(暁)
http://cinemajournal.seesaa.net/article/493262568.html
上記スタッフ日記には、この斜面のことは下記のように書いています。
「ツトムさんの山荘の窓からのシーンがよく出てきましたが、そこからは北アルプス北部の白馬乗鞍岳方面が見えました。よく見たら栂池スキー場もわかるかもしれません。おそらく下の写真の中央右寄りの山の斜面に2本の白っぽいスジが見えるのが栂池スキー場の上部に登っていくリフトのラインではないかと思います。その上部が白馬乗鞍岳(中央)。その右側が白馬乗鞍天狗原下の大斜面(写真中央右寄りの平らな部分の斜面)。春にはそこの脇を登って白馬乗鞍岳の稜線に出て天狗原へ。そこから反対側の斜面を下って蓮華温泉への山岳スキーを楽しんでいました。6年くらい通ったかも。東面のこの大斜面もスキーの醍醐味を楽しめる斜面です」
ツトムさんの家の窓から見える景色
この家の窓から見える風景の描写をこのように書きましたが、その一番下に書いたこの「大斜面」のあたりで雪崩が起きたと思います。一般人のレベルでは60cmを越える新雪の上を滑るなんて、体が埋まってしまってとても滑ることができません。
私の山スキーの仲間たちは雪崩シーズンが終わった4月初め頃に行っていたので、雪崩が多いこの時期に行くなんてなんて無謀なと思いましたが、この日は外国人ばかり3パーティもここにいたというのを知ってよけいびっくり。そして、彼らが滑っていて雪崩にあった時刻が「14時25分頃」ということで、まさに雪崩が起きそうな時間でした。普通、雪の状態が少しは固い午前中とか、少し冷えてきた夕方近くに滑ると思うのですが、こんな雪崩が起きそうな時間に滑るとはと思いました。
この時期は表層雪崩が多く、春には底雪崩が怖いので、私たちも雪崩シーズンが終わった春だからといって安心して滑っていたわけではありません。私たちはいつも登り切った天狗原で昼を食べ、滑り始める時には午後2時過ぎになっていたので、外気は暖かく、雪崩が起きそうな時間だったので、滑るときには周辺の状況を目と耳で確認しながら滑っていました。
春の雪はベタ雪ですが、彼らがこの時期に行ったのは新雪の粉雪を滑る醍醐味を味わいたくて行ったのだと思います。確かに新雪の粉雪を滑るのはスキーヤーのあこがれではあります。でも、かなりの技術がないと整備されていない新雪をこなせません。亡くなったうちのひとりは、アメリカの元フリースタイルスキー世界チャンピオンとのこと。2015年の世界選手権でハーフパイプで優勝したほか、2018年のワールドカップでもハーフパイプで優勝したカイル・スメーンさん(31歳)で、もうひとりはオーストリア人のクリストフ・ショフエガーさん(30歳)。このふたりに限らず、今回この現場にいた人たちは、相当の滑り手たちだったと思います。深い新雪の中を滑るにはかなりの技術が必要なのです。少しスキーができるレベルではとてもこなせません。
これを書くにあたってネットを調べましたが、いろいろなメディアで「バックカントリーで雪崩事故」という記事が多く、それを見て、上記に書いたように「無謀な事故」と思いました。私が山スキーをしていた時代は「バックカントリー」という言葉はなく、外国人スキーヤーが増えてきた2000年代以降から出てきた言葉だと思うのですが、バックカントリーのイメージは「スキー場の整備された斜面ではない、スキー場横の整備されていない斜面」というイメージがあります。でも、今回の雪崩事故が起きた場所はゲレンデの延長のような場所ではなく、スキー場から2時間くらい登った位置なので、「山スキー」という概念で考えるべきではないかと思います。その中で、下記のような「日本雪崩ネットワーク」の【調査速報】記事をみつけました。
日本雪崩ネットワーク 2023.2.5 【調査速報】
https://snow.nadare.jp/news/2023/000071.html
2023年1月29日に白馬乗鞍岳(長野県)の天狗原東側斜面で発生した雪崩事故について、概略を整理しましたので、お知らせ致します
●事故概略●
「山岳滑走を目的とし、準備と装備の整った2グループが行動中に出会い、天狗原の東斜面を滑走。第1グループの2人と第2グループの1人が、それぞれ一人ずつ安全に滑走を終え、下部で待機。第2グループの2番目の滑走者が雪崩を誘発し、滑走者当人と下部にいた3人、合わせて4人が雪崩に埋没。たまたま近傍の尾根上にいた第3グループ(8人)が、雪崩および事案の発生を覚知し、すぐに捜索活動に入った。事故発生が警察へ通報された後、同日夕方には遭難対策協議会の隊員も出動し、関係者の下山のサポートがなされた。翌30日、警察によって意識不明者の救助が行われ、2人の死亡が確認された。」
他の記事によると、アメリカのグループは、アウトドア雑誌「マウンテン・ガゼット」の取材で来ていたようです。スメインさんは「マウンテン・ガゼット」所属のアクションスポーツ写真家のグラント・ガンダーソンさんとプロスキーヤーのアダム・ユーさん一行は撮影などのために小谷(おたり)村を訪れていて、前日の28日に撮影を終え、29日は旅の最終日ということで純粋にスキーを楽しむためスメインさんとアダム・ユーさんたちは最後の滑りに出かけ、ガンダーソンさんは10日間の疲れのためベースキャンプに残っていたようです。
ガンダーソンさんがアダムさんに聞いた事故が起きた時の状況によると「もう一組のスキーヤーが雪崩を誘発し、アダムとカイルともう一人のスキーヤーは逃げようとしたけど、雪崩に巻き込まれ、アダムは深さ1.5mに25分間も埋まっていたけど無傷。隣に埋もれていたスキーヤーは内臓損傷で死亡。カイルさんは衝撃で50メートル投げ出され、埋まって死亡したと語っていたらしい。
現地では、カナダの山岳ガイド2名と、救急医師・看護士など4、5名からなる別のグループが救助にあたり、医師たちはカイルともう一人のスキーヤーにできる限りのことをしてくれた」と語っています。
スメインさんたちはスキー場などで撮影した写真を観光PR用に提供する代わりに旅行費用の一部を長野県観光機構から支援を受ける予定で小谷村を訪れていたようです。
この文によると、「日本雪崩ネットワーク」のレポートにある、尾根上にいた8人グループはカナダからのグループで、運よく医師や看護士のグループで山のガイドもいたのでしょう。
「日本雪崩ネットワーク」のレポートを見ると、彼らは決して装備や準備は怠っていないし、慎重に注意深く一人づつ滑ってはいたようです。でも、4人目が滑った時に雪崩を起こしてしまったとのこと。やはり、この時間に雪崩が起きそうな斜面を滑るということ自体が危険ではあったのです。また、彼らは日本の登山経験が少なく、県条例で義務付けられている登山計画書の提出もなかったそうなので、今後は海外からの人たちにもわかるように山での決まりや情報を提供していかないと外国人の遭難者が増えてしまう恐れがありますね。
白馬乗鞍岳からのスカイセーリングスキー。こういう楽しみ方もありますが、これはさらに上級者でなくてはできないスポーツです。後の山は杓子岳、その後ろは白馬鑓ヶ岳。1986年か87年、天狗原で撮影 撮影:宮崎暁美
SBC信越放送
白馬乗鞍雪崩遭難について、長い間山岳遭難救助に携わってきた降旗義道さんが語っています
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/sbc/301682
(上記写真のスキーヤーは降籏義道さんかもしれません。この時、天狗原で降籏さんたちにお会いしました。降籏さんたちはスカイセーリングスキーに来ていました。私たちはそこから蓮華温泉に滑りおりました)
毎年ニュースになる雪山での雪崩事故。「そんなところを滑るのが悪い」といった批判にいつも心を痛めています。雪山のすばらしさ、大斜面や長距離を滑る気持ちよさを知ってしまうと、行かずにはいられない。私自身も6年近くこの場所を訪れていました。それだけ魅力ある場所です。しかも天狗原から蓮華温泉へのスキー滑降は、1時間以上の滑りができるのです。栂池から2時間半くらいかけて登ったかいがあります。そして滑り降りたあとは温泉につかり、1日の疲れをいやす。もう最高です。
東京で生まれ育った私ですが、1965年、中学1年の時にスキーを始め、1970年に就職してからは会社のスキー部に入り、正月は栂池高原スキー場で合宿。これにも6シーズンくらい行きました。なので、この小谷村栂池という場所は、私にとってスキーの上達と滑りを楽しんだところなのです。最初はゲレンデスキーだけでしたが、元々登山もしていて、冬山でスキーを使いたいと思い、山スキーも始めました。1980年代になると3月の春分の日頃には志賀高原横手山から草津温泉への『私をスキーに連れてって』のコースを滑り、4月2週目くらいに栂池〜蓮華温泉のスキーにという流れで行っていました。12月から3月頃まではゲレンデスキーで足を慣らし山スキーに備えました。山スキーのスキー板のビンディング(靴を板に取り付けるところ)というのはかかとが上がり、シールを取りつけて登ることもできます。急坂は無理ですが、けっこうな角度まで登れました。シールで登れなくなると、スキーをリュックの両脇に取り付けて登りました。
1989年7月に、山スキー仲間と中国の四姑娘(スークーニャン)に登るという計画をし、6月4日に高所訓練を兼ねて富士山山頂に登り、山頂から滑りましたが、6合目くらいまでスキー滑走ができました。富士山山頂からのスキー滑降という貴重な経験ができましたが、それもこの栂池、乗鞍での長年のスキー修行のたまもの。でも富士山から降りてきたら、6月4日夜中に天安門事件が起こっていたのです。私たちはそのことを知らず富士山に登り滑っていました。天安門事件が起こってしまったので、結局、四姑娘には行きませんでしたが、富士山に登ったのもこの1回きりでした。
1991年頃までスキーをしていましたが、その後は映画にハマってしまったので、スキーは卒業してしまいました。両方はさすがに無理でした。今はもうスムーズにスキーで滑ることはできないでしょうがいい思い出です(暁)。