映画編集者の岸富美子さん(98歳)が5月23日(2019年)亡くなった。日本の女性編集者の草分け的存在だったが、戦前戦後の激動の歴史に翻弄され、波乱万丈の人生だった。
1920年(大正9年)中国東北部奉天省営口生まれ。映画カメラマンの兄の紹介により、15歳で京都の第一映画社に入り編集助手に。サイレントからトーキーへ変わる時期だった。伊藤大輔監督『お六櫛』(1936年/昭和11年)、溝口健二監督『浪華悲歌』(1936年)などで編集助手の仕事に携わる。溝口監督の助監督だった坂根田鶴子(後に女性監督の草分けになった)の下で編集助手を務めた。
その後、JOスタヂオで伊丹万作監督、アーノルド・ファンク監督の日独合作映画『新しき土』(1937年)に参加。この作品でドイツの女性編集者アリス・ルードヴィッヒに最新の編集技術を学んだ。
日活などを経て、1939年/昭和14年に兄たちと共に中国大陸に渡り、満州映画協会(満映)で編集者として働き始め、李香蘭の『私の鶯』などに編集助手として携わった。
戦後、内戦に巻き込まれ、日本にすぐには帰れず、内田吐夢監督らと共に東北電影製片廠に残った。そこで国民的映画『白毛女』(1950年)の編集を手がけ、新中国の映画製作者たちに編集技術を教え、中国映画発展の礎を築いた。しかし、日本人が製作に貢献した事実は長く伏せられ、2005年、過去100年の中国映画の歴史を紹介する「中国電影博物館」ができるまでは「安芙梅」という中国名で記されていた。この博物館ができた時、中国映画史での日本人の功績を讃えるコーナーが設けられたという。
1953年(昭和28年)日本に帰国。
岸さん家族の満映崩壊後の生活は波瀾万丈だった。ソ連軍の侵攻、共産党による「精簡」と呼ばれる学習会での自己批判や人員整理、炭鉱労働など、過酷な生活が続き、その後、新中国の映画作りに参加することになった。岸さんは戦前戦後の激動の中国映画史の生き証人だった。岸さんの家族を始め、他にも日本の映画人が大陸に残り、新中国の映画作りに関わったという。
しかし、戦後中国に残留することになり、50年代にやっと帰国した映画人たちは、日本では「アカ」というレッテルを貼られ、日本映画界に受け入れられなかった。岸さんもフリーランスでしか働く道しかなく、主に独立プロなどで編集の仕事を手がけた。
2015年、岸富美子・石井妙子共著の手記「満映とわたし」(文藝春秋刊)が出版された。この本を元に劇団民芸が、昨年(2018年)「時を接ぐ」というタイトルで、岸さんの生涯を(主演・日色ともゑ)舞台化した。
シネマジャーナルでは岸さんに取材し、本誌95号(2015年)に掲載している。なお、シネマジャーナル71号では岸さんと同じく、戦後も中国に在留し、中国映画の発展とその後の日中映画交流・通訳・翻訳などに尽くした森川和代さん(『山の郵便配達』『上海家族』などの日本語字幕担当)の遺稿を夫の森川忍さんがまとめた<森川和代が生きた旧「満州」、その時代―革命と戦火を駆け抜けた青春期>も紹介している。
私が岸富美子さんのことを知ったのは、2009年、明治学院大学で行われた「第14回 日本映画シンポジウム 日本/ 中国 映画往還」で、岸富美子さんの講演があることを知らせるチラシでした。
森川和代さんをはじめ、内田吐夢監督、加藤泰監督など、戦後、中国に残されて新中国の映画黎明期を支えた映画人がいたというのは知っていましたが、女性編集者でそういう方がいたというのが驚きでした。そしてその講演で、中国だけでなく北朝鮮の映画製作所にまで派遣されていたという話を聞き、数奇な運命、波乱万丈の人生を送った方なんだと知りました。
日本の女性映画編集者のパイオニアとも言える人なのに、日本に帰ってから、日本の映画界では「中国帰りのアカ」というレッテルを貼られ、認められずにいたということに理不尽さを感じました。その後、晩年になって、やっと彼女の仕事が広く認められ、「満映とわたし」という本も出版された時は、ほんとに良かったと思いました。去年(2018)、この本を元にして岸さんの生涯を描いた、劇団民芸の「時を接ぐ」という演劇にも行ってきました。日色ともゑさんが岸さんの若い頃から年をとるまで演じていましたが、演劇を見るのが久しぶりだった私にとって、とっても新鮮な経験でした。実際の映画編集機などを使って、編集作業を教えるシーンなどは、やはり本とは違ってリアルで、とても興味深かったです(暁)。
2019年07月14日
この記事へのコメント
コメントを書く