2021年04月11日

『生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事』にリーダーのあるべき姿を思う。(咲)

1年1回発行のシネマジャーナル本誌104号の入稿日が間近に迫っているのですが、4月6日(火)、1時からロシアのアニメ『クー!キン・ザ・ザ』の最終試写があって渋谷まで出かけてきました。
2016年に観た実写版『不思議惑星キン・ザ・ザ デジタル・リマスター版』が何とも不思議な世界で面白かったので、これは絶対見逃せないという次第でした。
実写版の方がインパクトありましたが、アニメも負けず劣らず脱力系の作品で楽しみました。

この日の試写予定は、これ1本。渋谷まで行くので、何か観るべき映画はないかと検索したら、ありました! 
しかも、映画美学校試写室での『クー!キン・ザ・ザ』が終わってから8分後から、同じ建物3階のユーロスペースでの上映。

という次第で、『生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事』を観てきました。
これは見逃してはいけない映画でした。
『クー!キン・ザ・ザ』の試写で会ったK氏に、このあと、この映画を観ると言ったら、「順序が逆の方がいいんじゃないの?」と言われましたが、いえいえ、逆だったら、『クー!キン・ザ・ザ』を観ることができないほど衝撃を受けました。

『生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事』
監督:佐古忠彦 2021年/DCP/5.1ch/118分 
公式サイト:http://ikiro.arc-films.co.jp/
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1945年(昭和20年)1月12日、大阪府内政部長(大阪府のナンバー2)だった島田叡氏は、沖縄県知事の辞令を受け取ります。前年の10月10日、米軍の大空襲で那覇は壊滅的な打撃を受け、前任の県知事は東京に行ったまま帰任せず空席になっていたのです。選挙で選ぶ今と違って、県知事は内務省官僚が任命されていたと知りました。

当然のことながら、家族全員から反対されます。
「これが若い者ならば、赤紙1枚で否応なしに行かなければならないのではないか。それを俺が固辞できる自由をいいことに断ったとなれば、もう卑怯者として外も歩けなくなる。俺は死にとうないから誰かが行って死んでくれとは、よう言わん」と決意を変えず、1945年1月31日、佐世保経由、沖縄へ。
着任してすぐ、県民の食糧不足を補うため、台湾に交渉して米を運んで貰います。沖縄の隅々まで行き渡る様、手配しますが、軍に横取りされたケースも多々あったようです。
沖縄南部の人たちを疎開させなければいけない戦況とわかっているのに、行政が滞っていた為に疎開できないでいたことにも心を痛めたようです。

佐古忠彦監督は、米軍上陸必至の死地であることを悟って県知事として赴任し、60万県民の命を委ねられた内務官僚・島田叡の人物像を、映像も音声も存在しない中で、当時を知る人々の証言で浮き彫りにしています。

玉砕しろと日本軍から散々言われてきた沖縄の人たちが、島田叡氏の「命を大事にしなさい」という言葉にびっくりしながらも、お陰で生き延びたと証言していました。

島田叡氏は、神戸市須磨の生まれで、父が長く勤務した兵庫高校の前身、神戸二中の卒業生でした。17歳で志願して、沖縄戦を経験した方が、やはり兵庫県出身で、島田叡氏は同郷であることを喜び、煙草を1本差しだそうとして、「未成年だね」と、紙に包んだ黒砂糖をくださったそうです。無事故郷に帰れよという思いが籠っていたのではないでしょうか。

家に帰って父に話したら、兵庫高校の正門近くに島田叡氏の銅像があって、有名な人物だと知っていたけれど、詳しい功績は知らなかったとのこと。以前は、校庭の奥にあるプールのそばにあった銅像が、校舎の建て替えの時に正門のそばに格上げになったことも教えてくれました。

島田叡氏は、沖縄戦組織的戦闘終結直後、摩文仁の軍医部壕を出てから消息を絶たれていて、どんな最期を迎えられたのかは不明です。
摩文仁の丘にある慰霊塔「島守の塔」に、島田叡の名が刻まれていて、本土出身の内務省の官僚が、個人名まで記され沖縄で慰霊の対象となっていることに、沖縄の人たちの思いを感じます。

映画は、日本軍が沖縄を捨て石にしたことも、またまたずっしり教えてくれました。
権力を持つ者のあるべき姿を考えさせられたドキュメンタリーでした。
生き証人のいるうちに映画を作ってくださったことに感謝です。


posted by sakiko at 19:39| Comment(0) | 映画雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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