2021年12月17日

『東洋の魔女』を観に行く(暁)

sub11補正_R.jpg
(C)UFO Production

『東洋の魔女』の試写を見逃がしてはいけないと思ったのですが、試写を観に行くことができず、オンライン試写でも観ることができず、結局公開されてから観に行きました。今になって1964年の東京オリンピックでのバレーボールのことが映画になるのはなぜ?と思いましたが、あの時リアルタイムでTV観戦体験した私としては、とても懐かしく思い、再度あの興奮の経験を振り返りたいと思いました。そして、もう記憶のかなたになっていたあの時の熱狂を思い出しました。

渋谷ユーロスペースほか全国順次公開中 劇場情報
*作品紹介 シネマジャーナルHP 『東洋の魔女』

監督・脚本:ジュリアン・ファロ
製作:ウィリアム・ジェアナン
撮影:山崎裕
音楽:ジェイソン・ライトル K-Raw
ラインプロダクション:ドキュメンタリージャパン、橋本佳子、角田良子
出演:河西昌枝、松村好子、半田百合子、谷田絹子、宮本恵美子、磯部サタ、松村勝美、篠崎洋子、大松博文

『東洋の魔女』公式HP

東洋の魔女_ポスターデータ_R_R.jpg
cUFO Production、c浦野千賀子・TMS

1964年の東京オリンピックの時は中学1年で小平1中に通っていました。モータリゼーションの時代が来て車が増え、首都高ができたり、一般道路も整備されたり、ビルがニョキニョキ建ち、このオリンピックに向かって東京の街が様変わりしました。そしてオリンピックに向けTVも家庭に普及しました。御多分にもれず、我が家もこのオリンピックに向け、白黒TV(当時は白黒しかなかったと思います)を買いました。それまではご近所のTVがある家に見に行っていました。そして迎えたオリンピックでした。
今回(2021年開催)のオリンピックは観客なしだったのでなかったと思いますが、1964年の東京オリンピックでは、いろいろな種目で学校からの学生派遣がありました。私は運よく抽選に当たって「体操競技」を見に行くことができ、バス1台に乗って学校から東京体育館に行きました。席は段違い平行棒の前で、そこまでの距離は15mもなかったと思います。そして目の前でチャスラフスカ選手のウルトラCの演技を見ることができました。今でもそのシーンが思い浮かびます。鉄棒の前で体がグルっと一回りして、また鉄棒を掴むという演技をしたのですが、何が何だかわからず、家に帰ってからTVで解説付きの場面を見て、ウルトラcと知りました(笑)。スポーツ観戦が初めてだったので知らなかったのですが、競技を生で見る場合は解説は何もなく目の前では状況がわからなかったのです。その経験から、その後マラソンなどの観戦に行く時にはラジオを持って出るようになりました。
ベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア)

そんな1964年の東京オリンピックのなかでも印象に残っている競技が女子バレーボールでした。河西選手を始め、日紡貝塚の選手たちを中心にしたメンバーの大活躍で、決勝戦の時は家族そろってTVにかじり付きでした。優勝はあっさり決まりましたが、あの時の興奮は忘れません。東京オリンピックで一番盛り上がった時でした。その後、バレーボール競技人口も増えましたし、「アタックNo.1」や「サインはV」も見ました。学校でもクラス対抗バレーボール大会などがありました。中学2年(1965年)になって、新しくできた小平4中という学校に移ったのですが、その学校から歩いて15分くらいのところに、「日紡貝塚」のライバル「日立武蔵」があり、バレーボールの練習を見に行ったこともあります。その頃は生沼スミエさんなどが日立武蔵の選手で活躍し始めた頃でした。この原稿を書くにあたって調べていたら、ずっと後の世代ですが大林素子さんも日立武蔵の選手だったことを知りました。しかも小平2中の出身。やはり中学校の時に日立武蔵のバレーボールの練習見学に行った経験があり、その経験が後のバレーボール人生につながったようです。

シネマジャーナル本誌で渋谷昶子監督のこれまでの歩みを連載することになり(2015年)、私は渋谷監督の入院している病院に何度も通いましたが、その時に、渋谷監督が監督した日紡貝塚女子バレーチームを撮ったドキュメンタリー作品『挑戦』(1965年)がカンヌ映画祭短編部門グランプリ作品になったことを知りました。渋谷監督は、この作品の撮影で工夫したことを話してくれました。その中でもあの回転レシーブを撮影するために透明なプラスチック板を通して下から撮影するという方法を編み出したという話が一番印象に残りました。また、最初は女性だからと監督を任せてもらえなくて、この作品を撮るためにいろいろ苦労した話や、やっと監督できることになった話などもしてくれました。そして日紡貝塚に通って、撮影許可をもらった時の話なども話してくれました。ほんとは4話連続で渋谷監督の生きて来た道をご自身で書いてもらう予定だったのに、1話目を書き終わった時に亡くなってしまって残念でした。なので1話限りで、とうとうこの『挑戦』の話を書いてもらうことができませんでした。返す返すも残念です。

*渋谷昶子監督が書いた記事掲載はシネマジャーナル96号(2016 春)

sub1補正_R.jpg
(C)UFO Production

そして、この1978年生まれのジュリアン・ファロ監督の『東洋の魔女』。なぜフランスの映画監督が、この作品をと思ったけど、現在、フランス国立スポーツ体育研究所(INSEP)の映像管理部門で働き、これまで「個性的で超人的なパワーを持つアスリートたちに焦点を当て、スポーツ、映画、芸術の架け橋となる映像作品を制作してきた」とのことなので、「東洋の魔女」たちに興味を持ったのかもしれないですね。それにしてもイラストの部分、欧米の人たちが持つ日本感という感じがちょっと気になりました。
「東洋の魔女」は、選手引退後もバレーボールの普及をしてきたことが描かれ、彼女たちの今も知ることができました。彼女たちのほとんどは80代になり、今、この記録を残していなかったら、語れる方たちがいなくなってしまう。貴重な記録になりました。
撮影は、是枝裕和監督とのコンビが有名ではありますが、ドキュメンタリー作品を多く撮ってきた山崎裕さんが担当しています。この作品のラインプロダクションを担当しているドキュメンタリージャパンの橋本佳子さん、彼女を『ひろしま 石内都・遺されたものたち』でインタビューした時に、ドキュメンタリージャパンの事務所で山崎さんにお会いしましたが、ドキュメンタリー好きな私としては、「この方がドキュメンタリー作品をたくさん撮った山崎裕さん!」と思い、嬉しかったです。山崎さん自身にはインタビューをしたことがないですが、いつかしてみたい。

*シネマジャーナルで取材した山崎裕さん撮影作品
『ANPO』(2010年) 
安保をアートで語る リンダ・ホーグランド監督インタビュー

『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』(2012年)
長谷川三郎監督インタビュー

『ひろしま 石内都・遺されたものたち』(2013年)
リンダ・ホーグランド監督・橋本佳子プロデューサーインタビュー

まとめ 宮崎暁美
posted by akemi at 07:04| Comment(0) | 映画鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: