2022年08月14日

父、百歳を目前に旅立ちました (咲)

1922年(大正11年)生まれの父、すこぶる元気で、9月6日の百歳の誕生日を楽勝で迎えることができると思っていました。7月末、猛暑のためか急に食欲をなくし、8月2日(火)の夜、容体が急変。救急車を呼んだのですが、あっけなく逝ってしまいました。老衰との診断。亡くなる3日前まで元気にしていましたので、大往生です。
実は私のほうが先に体調を崩して食欲がなく、31日と1日は、父も私も西瓜しか食べられませんでした。父は西瓜を自分で綺麗にカットして、塩を振って、「美味しいね」と。

今年初めから腰が痛いと整形外科に通っていたのですが、先生の方が4月に亡くなられてしまい、その後はほかの整形外科に行くこともなく過ごしていました。いずれ歩けなくなったら施設にいれることも考えなくちゃと、なんとなく思っていたのですが、実に娘孝行な父です。
介護保険も一度も使いませんでした。高い保険料を払っていたのに!

11年前に母が亡くなって以来、一緒に暮らしていましたが、朝食は父が自分で用意。昼食と夕食は私が作って一緒に食べていましたが、私が試写などで出かけた日は、聖蹟桜ヶ丘や立川のお気に入りのお店に行ってました。何を食べたか、私が帰ると必ず話してくれました。 なんといっても、おしゃべり好き。人と会って話すのが楽しみだったのに、コロナ禍でそれもままならず、寂しかったことと思います。
そして、私の心残りは、父が原稿を書き上げていた『自分史の「学徒出陣」』を、出版できなかったこと。印刷所に持ち込むよう頼まれていたのに、シネジャの本誌が終わってから・・・と後回しにしていたのです。(とっくに終わっていたのに・・・) 

ここに、『自分史の「学徒出陣」』の中から、父が戦後復学して、学友と「東大映画文化研究会」を設立した時のことを、映画繋がりとして披露します。

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昭和21年初夏。
東大の三四郎池の上にある「御殿」(集会所)のホールで、東大演劇研究会主催で、新劇俳優の瀧澤修さんを囲む晩餐会が催された。私は、会員ではなかったが、出席した。広い部屋のテーブルは満席の盛況であった。会食の前に、瀧澤修のお話(新劇の芸談)があり、お話の後は、会食をしながらの座談となった。  
私の右隣りの学生が話しかけて来たので、お互いに自己紹介をした。彼は、文学部美学美術史学科で、若林栄二郎と言った。三高出身で、私より二歳下、専ら演劇と映画が話題であった。そのうちに、若林君が、東大には、映画の研究会が無いことに触れて「映画の研究会を作らないか」と提案した。
私は、歌舞伎の研究が目的なので、一瞬迷ったが、プドフキンの、歌舞伎を認識した映画論が念頭に浮かび、趣味としても、映画を深く認識することは、歌舞伎の研究にも資するところがあると思ったので「やって見ようか」と賛同した。
日を改めて、私達は、赤門前の喫茶店で打ち合わせをした。映画研究会というサークルの名称は戦前からあったが、「研究」というよりは、趣味的に映画鑑賞をする同好会が一般であった。私達の念頭にあったのは、映画を芸術と認識して、学術的に研究するのを主目的とする、という考え方で一致した。そこで、研究会の名称を「東大映画文化研究会」とする事、部員は、いわゆる「映画ファン」は入会を断る事とし、日時を決め、大学の教室を借り、面談をした上で、私達の趣旨に賛同する学生だけに入会して貰うこととした。
入会者の正確な人数は、忘れたが、十五、六名で「東大映画文化研究会」は発足した。後年、映画の評論家として有名になった荻昌弘君は、この時に入会した部員の一人である。
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posted by sakiko at 04:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 追悼 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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