2022年10月09日

日本初の女性報道写真家 笹本恒子さんは107歳まで生きた!(暁)

日本初の女性報道写真家として知られ、100歳を超えても撮影を続けていた写真家の笹本恒子さんが8月15日、老衰のため亡くなりました。107歳でした。2016年には写真界のアカデミー賞と言われるルーシー賞(アメリカ)の長年写真界に貢献した人に贈られる「ライフタイム・アチーブメント部門賞」を受賞。2018年には東京都の名誉都民に選ばれたそうです。
笹本恒子さんは1914年(大正3年)、東京生まれ。高等専門学校家政科に通っていたけど、絵の勉強をしたかったため、父親に内緒で絵の研究所と洋裁学校に通ったそう。それが、その後の人生に影響を与えたようです。画家を志し、東京日日新聞(現在の毎日新聞)の挿絵アルバイトをした後、東京日日新聞・社会部長の小坂新夫(恒子さんが子供のころ、笹本家の離れを借りて住んでいた)にすすめられ、1939年東京日日新聞に仮入社し、1940年(昭和15年)に財団法人・写真協会に入り、女性報道写真家第1号になりました。海外使節団の動向、著名人や文化人の活動などを海外に紹介するなどの国内で起こった出来事を世界に配信する仕事をし、日独伊三国同盟の婦人祝賀会をはじめ、さまざまな国際会議などを撮影し、戦後はフリーの報道写真家として安保闘争や厳しい時代を生きる女性などを撮影していたそう。
約20年の沈黙のあと、1985年に71歳で、日本国内の著名な女性を集めた写真展「昭和史を彩った人たち」で、再び写真家として復帰。
90歳すぎには、その年でもカメラを持ち撮影を続ける姿や、おしゃれ大好きで明るい性格、的を得た発言などが注目され、テレビや雑誌に引っ張りだこに。著作も多数。長寿の秘訣を聞かれると、「年をとっても健康でいられるのは食事。人工甘味料、保存料、化学調味料などの添加物を一切とらず、冷凍でない肉や魚、野菜中心の生活。そして好きなのはお肉とワイン」と答えていたのが忘れられません。70代で写真家に復帰するまで、洋裁の知識を生かして、そういう関係の仕事をしていたとのことでおしゃれなのもうなづけます。100歳を超えても撮影を続けていましたが、101歳の時にはドキュメンタリー映画も撮影されました。
『笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ』監督・脚本:河邑厚徳(かわむら・あつのり)という作品。日本初の女性報道写真家笹本恒子と伝説のジャーナリストむのたけじ。カメラとペン、ふたりの101歳の生き方をみつめたドキュメンタリーです。この作品は、2016年の東京国際映画祭で上映され、監督と笹本さんも舞台挨拶で登壇。

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その後、一般公開されましたが、シネマジャーナルでは河邑厚徳監督にインタビューしています。
シネマジャーナルHP 特別記事 2017年
『笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ』河邑厚徳監督インタビュー
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2022年08月14日

父、百歳を目前に旅立ちました (咲)

1922年(大正11年)生まれの父、すこぶる元気で、9月6日の百歳の誕生日を楽勝で迎えることができると思っていました。7月末、猛暑のためか急に食欲をなくし、8月2日(火)の夜、容体が急変。救急車を呼んだのですが、あっけなく逝ってしまいました。老衰との診断。亡くなる3日前まで元気にしていましたので、大往生です。
実は私のほうが先に体調を崩して食欲がなく、31日と1日は、父も私も西瓜しか食べられませんでした。父は西瓜を自分で綺麗にカットして、塩を振って、「美味しいね」と。

今年初めから腰が痛いと整形外科に通っていたのですが、先生の方が4月に亡くなられてしまい、その後はほかの整形外科に行くこともなく過ごしていました。いずれ歩けなくなったら施設にいれることも考えなくちゃと、なんとなく思っていたのですが、実に娘孝行な父です。
介護保険も一度も使いませんでした。高い保険料を払っていたのに!

11年前に母が亡くなって以来、一緒に暮らしていましたが、朝食は父が自分で用意。昼食と夕食は私が作って一緒に食べていましたが、私が試写などで出かけた日は、聖蹟桜ヶ丘や立川のお気に入りのお店に行ってました。何を食べたか、私が帰ると必ず話してくれました。 なんといっても、おしゃべり好き。人と会って話すのが楽しみだったのに、コロナ禍でそれもままならず、寂しかったことと思います。
そして、私の心残りは、父が原稿を書き上げていた『自分史の「学徒出陣」』を、出版できなかったこと。印刷所に持ち込むよう頼まれていたのに、シネジャの本誌が終わってから・・・と後回しにしていたのです。(とっくに終わっていたのに・・・) 

ここに、『自分史の「学徒出陣」』の中から、父が戦後復学して、学友と「東大映画文化研究会」を設立した時のことを、映画繋がりとして披露します。

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昭和21年初夏。
東大の三四郎池の上にある「御殿」(集会所)のホールで、東大演劇研究会主催で、新劇俳優の瀧澤修さんを囲む晩餐会が催された。私は、会員ではなかったが、出席した。広い部屋のテーブルは満席の盛況であった。会食の前に、瀧澤修のお話(新劇の芸談)があり、お話の後は、会食をしながらの座談となった。  
私の右隣りの学生が話しかけて来たので、お互いに自己紹介をした。彼は、文学部美学美術史学科で、若林栄二郎と言った。三高出身で、私より二歳下、専ら演劇と映画が話題であった。そのうちに、若林君が、東大には、映画の研究会が無いことに触れて「映画の研究会を作らないか」と提案した。
私は、歌舞伎の研究が目的なので、一瞬迷ったが、プドフキンの、歌舞伎を認識した映画論が念頭に浮かび、趣味としても、映画を深く認識することは、歌舞伎の研究にも資するところがあると思ったので「やって見ようか」と賛同した。
日を改めて、私達は、赤門前の喫茶店で打ち合わせをした。映画研究会というサークルの名称は戦前からあったが、「研究」というよりは、趣味的に映画鑑賞をする同好会が一般であった。私達の念頭にあったのは、映画を芸術と認識して、学術的に研究するのを主目的とする、という考え方で一致した。そこで、研究会の名称を「東大映画文化研究会」とする事、部員は、いわゆる「映画ファン」は入会を断る事とし、日時を決め、大学の教室を借り、面談をした上で、私達の趣旨に賛同する学生だけに入会して貰うこととした。
入会者の正確な人数は、忘れたが、十五、六名で「東大映画文化研究会」は発足した。後年、映画の評論家として有名になった荻昌弘君は、この時に入会した部員の一人である。
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posted by sakiko at 04:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 追悼 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年03月20日

宝田明さんのご冥福をお祈りしています  (咲)

宝田明さんが3月14日(月)に急逝されました。
享年87歳・・・ 
ご冥福をお祈りするばかりです。

4月1日に公開される『世の中にたえて桜のなかりせば』のマスコミ最終試写が3月9日に行われたのですが。宝田明さんが出演されていると知って、これはぜひ紹介したいので見逃してはならないと駆け付けたのでした。
乃木坂46の岩本蓮加さんと、年の差70歳のダブル主演で、二人は“終活アドバイザー”として「終活屋」で働き、様々な境遇の人たちの終活を手伝うという役どころ。
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(C)2021「世の中にたえて桜のなかりせば」製作委員会

実は、『世の中にたえて桜のなかりせば』は、宝田明さんが「桜」をモチーフに企画を温め、実現に至った作品で、エグゼクティブプロデューサーも務められています。
宝田明さんは、日本統治下の朝鮮・清津で生まれ、1945年、11歳の時に旧満州に侵攻してきたソ連軍に銃撃されたご経験をお持ちです。不戦、平和への思いが、『世の中にたえて桜のなかりせば』にも溢れていました。1954年東宝ニューフェース第6期生としてデビューされて68年。本作が遺作となりました。
『世の中にたえて桜のなかりせば』
公式サイト:https://www.toei-video.co.jp/sakuramovie2022/

私が宝田明さんにお目にかかったのは、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭10周年のオープニングセレモニーの時のことでした。背がすらっと高くて、まさにスターのオーラを放っていらっしゃいました。
オープニング作品『燦燦-さんさん-』で主演を務められたのですが、『世の中にたえて桜のなかりせば』でも奥様役を務められた吉行和子さんが奥様役でした。

祝10周年! SKIPシティ国際Dシネマ映画祭
http://www.cinemajournal.net/special/2013/skip/index.html
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撮影:景山咲子

ことしの桜をご覧になられずに旅立たれた宝田明さん・・・・
戦争のない天国で、どうぞやすらかにお眠りください


posted by sakiko at 12:10| Comment(0) | 追悼 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月25日

レスリー追悼コンサートは、生活困窮者へのチャリティイベントでした! (咲)

この2か月ほど、1年1回発行のシネマジャーナル本誌の編集に追われていたのですが、4月19日(月)に、やっと104号を印刷会社に入稿してきました。
4月28日に出来上がります! 

2017年夏の100号までは、1年3回(もっと以前は4回)発行していたのですが、101号以降、1年1回の発行に切り替えました。
発行をいつにするかは、私の独断で4月末に決めました。
1年間の映画祭報告を中心にしつつも、4月1日のレスリー・チャン追悼記事を、あまりタイミングが遅くならないように掲載したいという思いがあってのことでした。

レスリー・チャン追悼記事を書いてくださる遠藤智子さんは、どんなことがあっても4月1日には香港にいらしていたのですが、さすがに去年も今年もコロナで無理。それでも、4月1日に何があったかを踏まえて4月10日までに原稿を書いてほしいと、かなりご無理なお願いをしていました。少し遅れて12日には原稿を届けられそうとのことだったのですが、仕事の大トラブルに巻き込まれたとのメール。遠藤さんは、社会的弱者やDV被害者などに寄り添う仕事をされているので、どうやら何かあったらしいと想像しました。
で、なんとか16日夜に原稿が届いて、19日に入稿となった次第です。

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4月1日のレスリー・チャン メモリアルコンサートがいかに素晴らしかったかは、スタッフ日記に書いたのですが、遠藤さんからの原稿が届いて、あのコンサートがただただレスリーを追悼するものでなく、香港の生活に困窮した皆さんのためのチャリティイベントだったことがわかりました。
集まった収益は経費を差し引かずに惜食堂=Food Angelに寄付されたとのことで、なんと、170万ドルが集まったそうです。
これだけでなく、ファンクラブも「想您6575。張國榮18週年紀念活動2021」というチャリティイベントを開催。「有心人」生活用品包(生活必需品のキット?)、ランチボックス、果物などを401個配布したとのこと。「レスリーの優しさを継続し、善と美の光を広めるために」この活動に取り組んだのだそうです。
詳しいことは、104号の記事「≪想你 張國榮≫ 香港に行けないと具合が悪くなるのだった」をぜひお読みください!

思えば、香港に行くと、よくチャリティイベントをやっていました。
テレビでもやっていたし、大きなモールに明星(スター)が来るというので行ってみるとチャリティイベントだったということもありました。
そういったチャリティがすごく身近にある感じがしました。
そんな人たちが暮らす香港・・・ これからどうなっていくことでしょう。


posted by sakiko at 20:15| Comment(0) | 追悼 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月01日

レスリー・チャン メモリアルコンサートに感無量 (咲)

今年も4月1日が巡ってきました。
レスリー・チャン(張國榮)が自ら旅立ってしまってから、もう18年・・・
あの日のことは昨日のように思い出します。
翌日、千鳥ヶ淵の満開の桜の下で、お仲間と泣きました。
それから、毎年、集まっていましたが、昨年はコロナで諦めました。
今年も、まだ無理ねと。

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香港でのメモリアルコンサートが日本時間8時半からライブ配信されるのがわかり、早めに夕食を済ませて、8時20分にアクセスしたら、プレ番組がすでに始まってました。(すでに、2万人がアクセス中!)
8時29分からカウントダウン。
8時半ちょうど、香港島のビクトリア湾に面したビルの壁面あちこちにレスリーの大きな写真!
レスリーの声が聴こえたとたん、もう涙でした。

九龍側 尖沙咀のオーシャンターミナルの屋上に、オーケストラ。
4人の歌手と、そして1組のアカペラグループがレスリーの歌を歌いました。
まずは、レスリーのコンサートにゲストで出たカレン・モク(莫文蔚)。
その後、ハッケン・リー(李克勤)とチョン・チーラム(張智霖)という、声質がレスリーに似ていて、背格好も似ている実力派の二人。 ナイスな選択です♪
二人の間にMetro Vocal Groupがアカペラで「追」。
西洋人男性4人組で、突っ込みどころ満載!
ギターで弾き語りしたサミュエル・ホイ(許冠傑)は、ちょっと老けたかなぁ・・・

香港の夜景を背景にした生演奏の合間合間に、レスリー本人のいろいろな映像を流してくれて、レスリーの声もたっぷり味わえる構成でした。
コンサートの場面には、もしかして私がいた時かしら?と。
『阿飛正伝(欲望の翼)』『烈火青春(レスリー・チャン 嵐の青春)』『春光乍洩(ブエノスアイレス)』等々映画の場面もたっぷり。
レスリーが監督した禁煙キャンペーンの映画『煙飛煙滅』の場面も!
いろいろな思い出が蘇りました。
感無量でした。

LINEでお仲間と会話しながら、泣いて笑った1時間20分!
集まれなくても、一緒に時を過ごせました。

かなりお金をかけたイベントで、香港の人たちがいつまでもレスリーを忘れてないことも嬉しかったです。
最近、香港から届くのは悲しいニュースばかりでしたが、香港、捨てたものじゃないなと!

あ〜 香港に行きたくなりました!


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終わってすぐ、アーカイブで観れるようになってました。
(ライブ終了時に、アクセス73945人だったのが、深夜には、36万人! お仲間が翌朝アクセスした時には、81万回!)

In Loving Memory of Leslie Cheung Online Concert 2021
https://www.youtube.com/channel/UC97oYK3XMf9RLtkc0lO8C-Q

このyoutubeの、最初の30分はプレ番組。30分の1分前から、カウントダウン。
そのあとが、オープニングのビクトリア湾に面して壁いっぱいのレスリーの場面です。



posted by sakiko at 23:40| Comment(0) | 追悼 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする