「映像女性学の会」から次回企画のお知らせ『BODY TROUBLE 男が女になるビョーキ?』(浜野佐知監督)が届いていました。
そこに井出洋子監督が8月13日に亡くなられたとあり、6月の上映会にゲストで来場されたときの写真が掲載されていました。ニュースに全く気付かず、慌ててfacebookの井出監督ページを確認すると、ご遺族からのお知らせがありました。お別れ会は20日だったそうです。
井出洋子監督は布川事件を扱ったドキュメンタリー『ショージとタカオ』で高く評価されました。私は4年前に『夕やけ子どもクラブ!』で取材させていただきました。
明るくてパワフルな方で、まだまだ作品を送り出してくださると思っていました。
ご冥福をお祈りします。
井出洋子監督インタビューはこちら
舞台挨拶時のスタッフ日記はこちら
2023年08月22日
2023年04月02日
レスリーが旅立って20年が経ちました (咲)
2023年4月1日。レスリー・チャンが自ら旅立って20年が経ちました。
毎年、シネジャに追悼記事を寄稿してくださるEさんが、コロナ禍で行けなかった香港に久しぶりに飛びました。
追悼展の模様をさっそく送ってくださいました。レスリー、今も香港の人たちに愛されいるのがわかります。
紅館で開催される《繼續寵愛・二十年・音樂會》のチケットは1月31日に売り出され、あっという間に完売。パソコンで観ますとEさん。え? 配信されるの?と伺ったら、ライブ配信と、4月2日3時と10時に録画配信されるのですが、事前予約チケット(有料)が必要とわかりました。ライブ配信される時間には、かつての追っかけ仲間と集まっているし、録画配信も時間的に無理なので諦めました。(本人が出てくれるなら、なんとしてでも観たいけど!)
Bunkamuraル・シネマで、【レスリー・チャン没後20年特別上映】として
『流星』4/1(土)、2(日)
『欲望の翼 デジタルリマスター版』4/1(土)
の2作品が上映されると数週間前に発表されました。
その時点では上映時間がわからなかったものの、かつての追っかけ仲間で集まる場所は、映画を観る人もいるだろうからと、幹事役のMさんが渋谷の中華料理屋さんを6時に予約してくれました。
『流星』は13:25から。『欲望の翼』は16:15からで終了時間は18:05。
『欲望の翼』は、数年前に皆でル・シネマで観たし、今後も上映予定があるので、今回は『流星』のみ観ることに。愛おしい大好きな作品です。
チケット売り出しの30日の深夜0時、スタンバイして、前から3番目の左端の席を確保。(もう少し後ろがよかったけど、既に埋まってました)
即完売とはならなかったですが、30分程で完売!
久しぶりに大画面で観る『流星』、感無量でした。
香港で公開された時、いち早く観たいと、そのために2泊3日で香港に飛んだのを思い出します。馴染み深い上環の町が主な舞台で、映画を観た翌日、いくつかの撮影場所を確認に行ったのでした。
3時半に『流星』が終わって、宴まで時間があるので、松濤の住宅街を歩きました。
今は亡きNHKにお勤めだったN氏に案内されて、桜の時期に数名で散策したのを思い出しました。
6時ちょっと前、お店に上がるエレベーターの前に、見覚えのある後ろ姿! もう20年近く会ってない名古屋のFちゃんでした。思わずハグ。
彼女は、レスリーの葬儀に香港に駆けつけ、火葬場にも行ったのです。でも、香港では親族が焼き場で待つことはないのだとか。骨壺に収められたのを後から取りに行くのだそうです。
日本語のできる女性がたまたまいて、「あの煙突の煙がレスリー」と教えてくださって、煙を見送ったことを当時聞かされたのですが、日本のように皆で骨を拾うことはないということは、今回初めて明かしてくれました。ところ変わればですね・・・
福岡のN子さんも久しぶりに来てくれました。
会社勤めの人にとって、4月1日は月初の上、年度変わりで忙しい日。今回は土曜日だったので来ることができた次第。 アジアフォーカスで福岡に通っていた時には、いつもお会いしていたのですが、それもなくなってしまったので、嬉しい再会でした。
1次会が終わって、お茶をと思ったけれど、渋谷はどこも若い人たちでいっぱい。
結局入れたのはカラオケ! 「レスリー・チャン」で曲を探したけれど出てこなくて、北京語読みの「チャングォロン」でいっぱい出てきました。でも、本人出演は1曲もなくて、がっかり。曲名もすべて中国語のカタカナ読みで書かれていて、どの曲なのかさっぱりわかりません。
それならばと、iPhoneでYouTubeを観ることに。 1時間近く経って、追加ドリンクを運んできたお店の方に、大画面に繋ぐことができるか聞いたら、接続コードを持ってきてくださいました。もっと早く聞けばよかった!
お蔭で、レスリーのコンサートを観ながら、楽しかった時を思い出すことができました。
踊れる曲で盛り上がり、最後は、「為[イ尓]鍾情」で、しっとりと締めました。
今回は、身内に不幸があったり、本人の体調が悪かったりで、3人が参加できませんでした。
私たちも皆、「あの頃は、よく走れたね」という状況です。思い出を共有できる友たちは、レスリーからの贈り物。ほんとに感謝です。
毎年、シネジャに追悼記事を寄稿してくださるEさんが、コロナ禍で行けなかった香港に久しぶりに飛びました。
追悼展の模様をさっそく送ってくださいました。レスリー、今も香港の人たちに愛されいるのがわかります。
紅館で開催される《繼續寵愛・二十年・音樂會》のチケットは1月31日に売り出され、あっという間に完売。パソコンで観ますとEさん。え? 配信されるの?と伺ったら、ライブ配信と、4月2日3時と10時に録画配信されるのですが、事前予約チケット(有料)が必要とわかりました。ライブ配信される時間には、かつての追っかけ仲間と集まっているし、録画配信も時間的に無理なので諦めました。(本人が出てくれるなら、なんとしてでも観たいけど!)
Bunkamuraル・シネマで、【レスリー・チャン没後20年特別上映】として
『流星』4/1(土)、2(日)
『欲望の翼 デジタルリマスター版』4/1(土)
の2作品が上映されると数週間前に発表されました。
その時点では上映時間がわからなかったものの、かつての追っかけ仲間で集まる場所は、映画を観る人もいるだろうからと、幹事役のMさんが渋谷の中華料理屋さんを6時に予約してくれました。
『流星』は13:25から。『欲望の翼』は16:15からで終了時間は18:05。
『欲望の翼』は、数年前に皆でル・シネマで観たし、今後も上映予定があるので、今回は『流星』のみ観ることに。愛おしい大好きな作品です。
チケット売り出しの30日の深夜0時、スタンバイして、前から3番目の左端の席を確保。(もう少し後ろがよかったけど、既に埋まってました)
即完売とはならなかったですが、30分程で完売!
久しぶりに大画面で観る『流星』、感無量でした。
香港で公開された時、いち早く観たいと、そのために2泊3日で香港に飛んだのを思い出します。馴染み深い上環の町が主な舞台で、映画を観た翌日、いくつかの撮影場所を確認に行ったのでした。
3時半に『流星』が終わって、宴まで時間があるので、松濤の住宅街を歩きました。
今は亡きNHKにお勤めだったN氏に案内されて、桜の時期に数名で散策したのを思い出しました。
6時ちょっと前、お店に上がるエレベーターの前に、見覚えのある後ろ姿! もう20年近く会ってない名古屋のFちゃんでした。思わずハグ。
彼女は、レスリーの葬儀に香港に駆けつけ、火葬場にも行ったのです。でも、香港では親族が焼き場で待つことはないのだとか。骨壺に収められたのを後から取りに行くのだそうです。
日本語のできる女性がたまたまいて、「あの煙突の煙がレスリー」と教えてくださって、煙を見送ったことを当時聞かされたのですが、日本のように皆で骨を拾うことはないということは、今回初めて明かしてくれました。ところ変わればですね・・・
福岡のN子さんも久しぶりに来てくれました。
会社勤めの人にとって、4月1日は月初の上、年度変わりで忙しい日。今回は土曜日だったので来ることができた次第。 アジアフォーカスで福岡に通っていた時には、いつもお会いしていたのですが、それもなくなってしまったので、嬉しい再会でした。
1次会が終わって、お茶をと思ったけれど、渋谷はどこも若い人たちでいっぱい。
結局入れたのはカラオケ! 「レスリー・チャン」で曲を探したけれど出てこなくて、北京語読みの「チャングォロン」でいっぱい出てきました。でも、本人出演は1曲もなくて、がっかり。曲名もすべて中国語のカタカナ読みで書かれていて、どの曲なのかさっぱりわかりません。
それならばと、iPhoneでYouTubeを観ることに。 1時間近く経って、追加ドリンクを運んできたお店の方に、大画面に繋ぐことができるか聞いたら、接続コードを持ってきてくださいました。もっと早く聞けばよかった!
お蔭で、レスリーのコンサートを観ながら、楽しかった時を思い出すことができました。
踊れる曲で盛り上がり、最後は、「為[イ尓]鍾情」で、しっとりと締めました。
今回は、身内に不幸があったり、本人の体調が悪かったりで、3人が参加できませんでした。
私たちも皆、「あの頃は、よく走れたね」という状況です。思い出を共有できる友たちは、レスリーからの贈り物。ほんとに感謝です。
2022年10月09日
日本初の女性報道写真家 笹本恒子さんは107歳まで生きた!(暁)
日本初の女性報道写真家として知られ、100歳を超えても撮影を続けていた写真家の笹本恒子さんが8月15日、老衰のため亡くなりました。107歳でした。2016年には写真界のアカデミー賞と言われるルーシー賞(アメリカ)の長年写真界に貢献した人に贈られる「ライフタイム・アチーブメント部門賞」を受賞。2018年には東京都の名誉都民に選ばれたそうです。
笹本恒子さんは1914年(大正3年)、東京生まれ。高等専門学校家政科に通っていたけど、絵の勉強をしたかったため、父親に内緒で絵の研究所と洋裁学校に通ったそう。それが、その後の人生に影響を与えたようです。画家を志し、東京日日新聞(現在の毎日新聞)の挿絵アルバイトをした後、東京日日新聞・社会部長の小坂新夫(恒子さんが子供のころ、笹本家の離れを借りて住んでいた)にすすめられ、1939年東京日日新聞に仮入社し、1940年(昭和15年)に財団法人・写真協会に入り、女性報道写真家第1号になりました。海外使節団の動向、著名人や文化人の活動などを海外に紹介するなどの国内で起こった出来事を世界に配信する仕事をし、日独伊三国同盟の婦人祝賀会をはじめ、さまざまな国際会議などを撮影し、戦後はフリーの報道写真家として安保闘争や厳しい時代を生きる女性などを撮影していたそう。
約20年の沈黙のあと、1985年に71歳で、日本国内の著名な女性を集めた写真展「昭和史を彩った人たち」で、再び写真家として復帰。
90歳すぎには、その年でもカメラを持ち撮影を続ける姿や、おしゃれ大好きで明るい性格、的を得た発言などが注目され、テレビや雑誌に引っ張りだこに。著作も多数。長寿の秘訣を聞かれると、「年をとっても健康でいられるのは食事。人工甘味料、保存料、化学調味料などの添加物を一切とらず、冷凍でない肉や魚、野菜中心の生活。そして好きなのはお肉とワイン」と答えていたのが忘れられません。70代で写真家に復帰するまで、洋裁の知識を生かして、そういう関係の仕事をしていたとのことでおしゃれなのもうなづけます。100歳を超えても撮影を続けていましたが、101歳の時にはドキュメンタリー映画も撮影されました。
『笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ』監督・脚本:河邑厚徳(かわむら・あつのり)という作品。日本初の女性報道写真家笹本恒子と伝説のジャーナリストむのたけじ。カメラとペン、ふたりの101歳の生き方をみつめたドキュメンタリーです。この作品は、2016年の東京国際映画祭で上映され、監督と笹本さんも舞台挨拶で登壇。
その後、一般公開されましたが、シネマジャーナルでは河邑厚徳監督にインタビューしています。
シネマジャーナルHP 特別記事 2017年
『笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ』河邑厚徳監督インタビュー
記事はこちら。
笹本恒子さんは1914年(大正3年)、東京生まれ。高等専門学校家政科に通っていたけど、絵の勉強をしたかったため、父親に内緒で絵の研究所と洋裁学校に通ったそう。それが、その後の人生に影響を与えたようです。画家を志し、東京日日新聞(現在の毎日新聞)の挿絵アルバイトをした後、東京日日新聞・社会部長の小坂新夫(恒子さんが子供のころ、笹本家の離れを借りて住んでいた)にすすめられ、1939年東京日日新聞に仮入社し、1940年(昭和15年)に財団法人・写真協会に入り、女性報道写真家第1号になりました。海外使節団の動向、著名人や文化人の活動などを海外に紹介するなどの国内で起こった出来事を世界に配信する仕事をし、日独伊三国同盟の婦人祝賀会をはじめ、さまざまな国際会議などを撮影し、戦後はフリーの報道写真家として安保闘争や厳しい時代を生きる女性などを撮影していたそう。
約20年の沈黙のあと、1985年に71歳で、日本国内の著名な女性を集めた写真展「昭和史を彩った人たち」で、再び写真家として復帰。
90歳すぎには、その年でもカメラを持ち撮影を続ける姿や、おしゃれ大好きで明るい性格、的を得た発言などが注目され、テレビや雑誌に引っ張りだこに。著作も多数。長寿の秘訣を聞かれると、「年をとっても健康でいられるのは食事。人工甘味料、保存料、化学調味料などの添加物を一切とらず、冷凍でない肉や魚、野菜中心の生活。そして好きなのはお肉とワイン」と答えていたのが忘れられません。70代で写真家に復帰するまで、洋裁の知識を生かして、そういう関係の仕事をしていたとのことでおしゃれなのもうなづけます。100歳を超えても撮影を続けていましたが、101歳の時にはドキュメンタリー映画も撮影されました。
『笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ』監督・脚本:河邑厚徳(かわむら・あつのり)という作品。日本初の女性報道写真家笹本恒子と伝説のジャーナリストむのたけじ。カメラとペン、ふたりの101歳の生き方をみつめたドキュメンタリーです。この作品は、2016年の東京国際映画祭で上映され、監督と笹本さんも舞台挨拶で登壇。
その後、一般公開されましたが、シネマジャーナルでは河邑厚徳監督にインタビューしています。
シネマジャーナルHP 特別記事 2017年
『笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ』河邑厚徳監督インタビュー
記事はこちら。
2022年08月14日
父、百歳を目前に旅立ちました (咲)
1922年(大正11年)生まれの父、すこぶる元気で、9月6日の百歳の誕生日を楽勝で迎えることができると思っていました。7月末、猛暑のためか急に食欲をなくし、8月2日(火)の夜、容体が急変。救急車を呼んだのですが、あっけなく逝ってしまいました。老衰との診断。亡くなる3日前まで元気にしていましたので、大往生です。
実は私のほうが先に体調を崩して食欲がなく、31日と1日は、父も私も西瓜しか食べられませんでした。父は西瓜を自分で綺麗にカットして、塩を振って、「美味しいね」と。
今年初めから腰が痛いと整形外科に通っていたのですが、先生の方が4月に亡くなられてしまい、その後はほかの整形外科に行くこともなく過ごしていました。いずれ歩けなくなったら施設にいれることも考えなくちゃと、なんとなく思っていたのですが、実に娘孝行な父です。
介護保険も一度も使いませんでした。高い保険料を払っていたのに!
11年前に母が亡くなって以来、一緒に暮らしていましたが、朝食は父が自分で用意。昼食と夕食は私が作って一緒に食べていましたが、私が試写などで出かけた日は、聖蹟桜ヶ丘や立川のお気に入りのお店に行ってました。何を食べたか、私が帰ると必ず話してくれました。 なんといっても、おしゃべり好き。人と会って話すのが楽しみだったのに、コロナ禍でそれもままならず、寂しかったことと思います。
そして、私の心残りは、父が原稿を書き上げていた『自分史の「学徒出陣」』を、出版できなかったこと。印刷所に持ち込むよう頼まれていたのに、シネジャの本誌が終わってから・・・と後回しにしていたのです。(とっくに終わっていたのに・・・)
ここに、『自分史の「学徒出陣」』の中から、父が戦後復学して、学友と「東大映画文化研究会」を設立した時のことを、映画繋がりとして披露します。
*******
昭和21年初夏。
東大の三四郎池の上にある「御殿」(集会所)のホールで、東大演劇研究会主催で、新劇俳優の瀧澤修さんを囲む晩餐会が催された。私は、会員ではなかったが、出席した。広い部屋のテーブルは満席の盛況であった。会食の前に、瀧澤修のお話(新劇の芸談)があり、お話の後は、会食をしながらの座談となった。
私の右隣りの学生が話しかけて来たので、お互いに自己紹介をした。彼は、文学部美学美術史学科で、若林栄二郎と言った。三高出身で、私より二歳下、専ら演劇と映画が話題であった。そのうちに、若林君が、東大には、映画の研究会が無いことに触れて「映画の研究会を作らないか」と提案した。
私は、歌舞伎の研究が目的なので、一瞬迷ったが、プドフキンの、歌舞伎を認識した映画論が念頭に浮かび、趣味としても、映画を深く認識することは、歌舞伎の研究にも資するところがあると思ったので「やって見ようか」と賛同した。
日を改めて、私達は、赤門前の喫茶店で打ち合わせをした。映画研究会というサークルの名称は戦前からあったが、「研究」というよりは、趣味的に映画鑑賞をする同好会が一般であった。私達の念頭にあったのは、映画を芸術と認識して、学術的に研究するのを主目的とする、という考え方で一致した。そこで、研究会の名称を「東大映画文化研究会」とする事、部員は、いわゆる「映画ファン」は入会を断る事とし、日時を決め、大学の教室を借り、面談をした上で、私達の趣旨に賛同する学生だけに入会して貰うこととした。
入会者の正確な人数は、忘れたが、十五、六名で「東大映画文化研究会」は発足した。後年、映画の評論家として有名になった荻昌弘君は、この時に入会した部員の一人である。
******
実は私のほうが先に体調を崩して食欲がなく、31日と1日は、父も私も西瓜しか食べられませんでした。父は西瓜を自分で綺麗にカットして、塩を振って、「美味しいね」と。
今年初めから腰が痛いと整形外科に通っていたのですが、先生の方が4月に亡くなられてしまい、その後はほかの整形外科に行くこともなく過ごしていました。いずれ歩けなくなったら施設にいれることも考えなくちゃと、なんとなく思っていたのですが、実に娘孝行な父です。
介護保険も一度も使いませんでした。高い保険料を払っていたのに!
11年前に母が亡くなって以来、一緒に暮らしていましたが、朝食は父が自分で用意。昼食と夕食は私が作って一緒に食べていましたが、私が試写などで出かけた日は、聖蹟桜ヶ丘や立川のお気に入りのお店に行ってました。何を食べたか、私が帰ると必ず話してくれました。 なんといっても、おしゃべり好き。人と会って話すのが楽しみだったのに、コロナ禍でそれもままならず、寂しかったことと思います。
そして、私の心残りは、父が原稿を書き上げていた『自分史の「学徒出陣」』を、出版できなかったこと。印刷所に持ち込むよう頼まれていたのに、シネジャの本誌が終わってから・・・と後回しにしていたのです。(とっくに終わっていたのに・・・)
ここに、『自分史の「学徒出陣」』の中から、父が戦後復学して、学友と「東大映画文化研究会」を設立した時のことを、映画繋がりとして披露します。
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昭和21年初夏。
東大の三四郎池の上にある「御殿」(集会所)のホールで、東大演劇研究会主催で、新劇俳優の瀧澤修さんを囲む晩餐会が催された。私は、会員ではなかったが、出席した。広い部屋のテーブルは満席の盛況であった。会食の前に、瀧澤修のお話(新劇の芸談)があり、お話の後は、会食をしながらの座談となった。
私の右隣りの学生が話しかけて来たので、お互いに自己紹介をした。彼は、文学部美学美術史学科で、若林栄二郎と言った。三高出身で、私より二歳下、専ら演劇と映画が話題であった。そのうちに、若林君が、東大には、映画の研究会が無いことに触れて「映画の研究会を作らないか」と提案した。
私は、歌舞伎の研究が目的なので、一瞬迷ったが、プドフキンの、歌舞伎を認識した映画論が念頭に浮かび、趣味としても、映画を深く認識することは、歌舞伎の研究にも資するところがあると思ったので「やって見ようか」と賛同した。
日を改めて、私達は、赤門前の喫茶店で打ち合わせをした。映画研究会というサークルの名称は戦前からあったが、「研究」というよりは、趣味的に映画鑑賞をする同好会が一般であった。私達の念頭にあったのは、映画を芸術と認識して、学術的に研究するのを主目的とする、という考え方で一致した。そこで、研究会の名称を「東大映画文化研究会」とする事、部員は、いわゆる「映画ファン」は入会を断る事とし、日時を決め、大学の教室を借り、面談をした上で、私達の趣旨に賛同する学生だけに入会して貰うこととした。
入会者の正確な人数は、忘れたが、十五、六名で「東大映画文化研究会」は発足した。後年、映画の評論家として有名になった荻昌弘君は、この時に入会した部員の一人である。
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2022年03月20日
宝田明さんのご冥福をお祈りしています (咲)
宝田明さんが3月14日(月)に急逝されました。
享年87歳・・・
ご冥福をお祈りするばかりです。
4月1日に公開される『世の中にたえて桜のなかりせば』のマスコミ最終試写が3月9日に行われたのですが。宝田明さんが出演されていると知って、これはぜひ紹介したいので見逃してはならないと駆け付けたのでした。
乃木坂46の岩本蓮加さんと、年の差70歳のダブル主演で、二人は“終活アドバイザー”として「終活屋」で働き、様々な境遇の人たちの終活を手伝うという役どころ。
(C)2021「世の中にたえて桜のなかりせば」製作委員会
実は、『世の中にたえて桜のなかりせば』は、宝田明さんが「桜」をモチーフに企画を温め、実現に至った作品で、エグゼクティブプロデューサーも務められています。
宝田明さんは、日本統治下の朝鮮・清津で生まれ、1945年、11歳の時に旧満州に侵攻してきたソ連軍に銃撃されたご経験をお持ちです。不戦、平和への思いが、『世の中にたえて桜のなかりせば』にも溢れていました。1954年東宝ニューフェース第6期生としてデビューされて68年。本作が遺作となりました。
『世の中にたえて桜のなかりせば』
公式サイト:https://www.toei-video.co.jp/sakuramovie2022/
私が宝田明さんにお目にかかったのは、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭10周年のオープニングセレモニーの時のことでした。背がすらっと高くて、まさにスターのオーラを放っていらっしゃいました。
オープニング作品『燦燦-さんさん-』で主演を務められたのですが、『世の中にたえて桜のなかりせば』でも奥様役を務められた吉行和子さんが奥様役でした。
祝10周年! SKIPシティ国際Dシネマ映画祭
http://www.cinemajournal.net/special/2013/skip/index.html
撮影:景山咲子
ことしの桜をご覧になられずに旅立たれた宝田明さん・・・・
戦争のない天国で、どうぞやすらかにお眠りください
享年87歳・・・
ご冥福をお祈りするばかりです。
4月1日に公開される『世の中にたえて桜のなかりせば』のマスコミ最終試写が3月9日に行われたのですが。宝田明さんが出演されていると知って、これはぜひ紹介したいので見逃してはならないと駆け付けたのでした。
乃木坂46の岩本蓮加さんと、年の差70歳のダブル主演で、二人は“終活アドバイザー”として「終活屋」で働き、様々な境遇の人たちの終活を手伝うという役どころ。
(C)2021「世の中にたえて桜のなかりせば」製作委員会
実は、『世の中にたえて桜のなかりせば』は、宝田明さんが「桜」をモチーフに企画を温め、実現に至った作品で、エグゼクティブプロデューサーも務められています。
宝田明さんは、日本統治下の朝鮮・清津で生まれ、1945年、11歳の時に旧満州に侵攻してきたソ連軍に銃撃されたご経験をお持ちです。不戦、平和への思いが、『世の中にたえて桜のなかりせば』にも溢れていました。1954年東宝ニューフェース第6期生としてデビューされて68年。本作が遺作となりました。
『世の中にたえて桜のなかりせば』
公式サイト:https://www.toei-video.co.jp/sakuramovie2022/
私が宝田明さんにお目にかかったのは、SKIPシティ国際Dシネマ映画祭10周年のオープニングセレモニーの時のことでした。背がすらっと高くて、まさにスターのオーラを放っていらっしゃいました。
オープニング作品『燦燦-さんさん-』で主演を務められたのですが、『世の中にたえて桜のなかりせば』でも奥様役を務められた吉行和子さんが奥様役でした。
祝10周年! SKIPシティ国際Dシネマ映画祭
http://www.cinemajournal.net/special/2013/skip/index.html
撮影:景山咲子
ことしの桜をご覧になられずに旅立たれた宝田明さん・・・・
戦争のない天国で、どうぞやすらかにお眠りください