2020年05月03日

ボリウッドの名優イルファーン・カーン、リシ・カプール相次いで逝く (咲)

4月29日、イルファーン・カーンが53歳でご逝去されたとのニュースが、facebook上で駆け巡りました。そして、翌日、4月30日には、リシ・カプールが67歳でご逝去のニュース。このご時世ですから、思わず、コロナウィルスに感染?と思ってしまいましたが、そうではなく、いずれも癌で亡くなられました。
お二人とも、派手ではなく、いぶし銀のような役者さんでした。
というか、名前はよく知っているのに、ごめんなさい、顔がぱっと思い浮かばない。それくらい、それぞれの映画の役にはまっていらっしゃったということかと思います。

イルファーン・カーン出演作で、真っ先に思い浮かんだのは、昨年9月に日本で公開された『ヒンディー・ミディアム』。娘の進学校のために奔走する父親役でした。
続編『Angrezi Medium』が、この3月にインドで公開されたのに、新型コロナウィルスの為に、早々に打ち切られたそうです。ぜひ日本でも公開してほしい作品です。

そして、もう1本、印象深いのが、『めぐり逢わせのお弁当』(2013年)。妻を亡くした保険会社に勤める男の役。仕出し弁当屋さんのお弁当が届くはずが、ある主婦の手作りの美味しいお弁当が間違って届いたことから、文通が始まるという物語。
妻にもう少し優しくすればよかったと反省する、ふつ〜の男。
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(C) AKFPL, ARTE France Cinema, ASAP Films, Dar Motion Pictures, NFDC, Rohfilm-2013

イルファーン・カーンは、イスラームの藩王国の太守(ナワーブ)の家系に生まれた方ですが、『めぐり逢わせのお弁当』では、ヒンディー語のあまり得意でないカトリック教徒という設定でした。お弁当に忍ばせる手紙は英語で書いています。
この映画、もう一度観たくなりました。
『めぐり逢わせのお弁当』リテーシュ・バトラ監督インタビュー
http://www.cinemajournal.net/special/2014/meguriawase/index.html
シネジャ作品紹介ブログ:http://cinemajournal-review.seesaa.net/article/402152572.html

俳優一族に生まれたリシ・カプールの若い時の作品は残念ながら観ていないのですが、日本公開作品では、『スチューデント・オブ・ザ・イヤー 狙え!No.1!!』(2012) 、『命ある限り』(2012)に出演されています。もう一度観てみないと、どの役だったのかわからない・・・ ごめんなさい。

お二人のご冥福をお祈りしています。


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2020年04月01日

レスリーへの思い アジポップ144号に寄稿しました (咲)

今日は、4月1日。
決して忘れられない日にち。
レスリー・チャンが自ら旅立ってしまったあの日から、17年・・・
当時、香港ではSARSが猛威をふるっていたのを思い出します。
そして、今、新型コロナウィルスの脅威・・・
毎年、この日には必ず、かつて共にレスリーを追いかけた友たちと集まっていたのですが、さすがに今年は早々に中止を決めました。
ここ数年は(もっとかも)、レスリーを偲ぶというより、久しぶりに顔を合わせて、とりとめのないおしゃべりに夢中になるひと時になっていました。

レスリーの魅力に惹かれた瞬間は、『男たちの挽歌』『欲望の翼』『さらば、わが愛/覇王別姫』『ブエノスアイレス』等々、皆さまざま。お土産のブロマイドも、こんな表情は・・・と私が思うものも、これがいいという人が必ずいて、ほんとに同じ男が好きなのかと思うほど。
香港や日本での熱情演唱会や、写真集のサイン会など、ほんとによく皆で追いかけました。
不思議とレスリーの話だけでなく、人生のもろもろなど、いろんな話もたくさんしました。
自分をさらけだせる友たちに引き合わせてくれたレスリーに、ほんとに感謝です。

香港では、民主化運動を政府が弾圧するなど、不穏な状況が続いています。
例年、開かれていたレスリーを追悼する集まりも出来ないのではないでしょうか・・・
世界中にコロナウィルスが蔓延し、香港にも自由にいけなくなってしまいました。
4月1日には必ず香港に赴いていた外国人ファンも、遠くからレスリーを偲ぶしかない状況です。
こんな世の中になってしまったのを、天国にいるレスリーは、どんな風に思っているでしょう・・・ 

何があっても毎年4月1日には香港に駆けつけていたEさんも、今年は叶わず、海老ワンタンと焼きそばを作ってレスり―を偲んだと、素敵な写真を届けてくださいました。
最初に、スマホの小さな画面で写真を観て、レスリーにワンタンをお供えしたのかと思ってしまいました。大きくしてみたら、素敵なブーケでした!
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こちらは香港風の海老ワンタン。小さい写真だと上のブーケがワンタンに見えるでしょう? 
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ご報告が遅くなりましたが、2月25日に発行されたASIAN POPS MAGAZINE(アジポップ)144号に、レスリーへの思いを寄稿しました。
日本で香港映画人気が全盛の頃からずっと続いているアジポップさんから、一筆をと依頼いただき、ファン冥利に尽きます。
どこかでお見かけになりましたら、お読みいただければ嬉しいです。
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アジポップ144号の表紙は、レスり―じゃなくて、台湾の人気俳優リウ・イ―ハオです。主演の「悲しみより、もっと悲しい物語」★4月3日より新宿武蔵野館、シネマ―ト心斎橋ほか全国順次ロ―ドショ―
※土日、休館の場合があります。
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2019年07月14日

追悼 満映の生き証人、映画編集者 岸富美子さん(暁)

映画編集者の岸富美子さん(98歳)が5月23日(2019年)亡くなった。日本の女性編集者の草分け的存在だったが、戦前戦後の激動の歴史に翻弄され、波乱万丈の人生だった。

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2009年「第14回 日本映画シンポジウム 日本/ 中国 映画往還」にて(撮影 宮崎暁美)


1920年(大正9年)中国東北部奉天省営口生まれ。映画カメラマンの兄の紹介により、15歳で京都の第一映画社に入り編集助手に。サイレントからトーキーへ変わる時期だった。伊藤大輔監督『お六櫛』(1936年/昭和11年)、溝口健二監督『浪華悲歌』(1936年)などで編集助手の仕事に携わる。溝口監督の助監督だった坂根田鶴子(後に女性監督の草分けになった)の下で編集助手を務めた。
その後、JOスタヂオで伊丹万作監督、アーノルド・ファンク監督の日独合作映画『新しき土』(1937年)に参加。この作品でドイツの女性編集者アリス・ルードヴィッヒに最新の編集技術を学んだ。
日活などを経て、1939年/昭和14年に兄たちと共に中国大陸に渡り、満州映画協会(満映)で編集者として働き始め、李香蘭の『私の鶯』などに編集助手として携わった。
戦後、内戦に巻き込まれ、日本にすぐには帰れず、内田吐夢監督らと共に東北電影製片廠に残った。そこで国民的映画『白毛女』(1950年)の編集を手がけ、新中国の映画製作者たちに編集技術を教え、中国映画発展の礎を築いた。しかし、日本人が製作に貢献した事実は長く伏せられ、2005年、過去100年の中国映画の歴史を紹介する「中国電影博物館」ができるまでは「安芙梅」という中国名で記されていた。この博物館ができた時、中国映画史での日本人の功績を讃えるコーナーが設けられたという。
1953年(昭和28年)日本に帰国。
岸さん家族の満映崩壊後の生活は波瀾万丈だった。ソ連軍の侵攻、共産党による「精簡」と呼ばれる学習会での自己批判や人員整理、炭鉱労働など、過酷な生活が続き、その後、新中国の映画作りに参加することになった。岸さんは戦前戦後の激動の中国映画史の生き証人だった。岸さんの家族を始め、他にも日本の映画人が大陸に残り、新中国の映画作りに関わったという。
しかし、戦後中国に残留することになり、50年代にやっと帰国した映画人たちは、日本では「アカ」というレッテルを貼られ、日本映画界に受け入れられなかった。岸さんもフリーランスでしか働く道しかなく、主に独立プロなどで編集の仕事を手がけた。
2015年、岸富美子・石井妙子共著の手記「満映とわたし」(文藝春秋刊)が出版された。この本を元に劇団民芸が、昨年(2018年)「時を接ぐ」というタイトルで、岸さんの生涯を(主演・日色ともゑ)舞台化した。

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単行本 満映とわたし 岸富美子 石井妙子
文藝春秋刊 定価:本体1,600円+税
発売日:2015年08月05日


シネマジャーナルでは岸さんに取材し、本誌95号(2015年)に掲載している。なお、シネマジャーナル71号では岸さんと同じく、戦後も中国に在留し、中国映画の発展とその後の日中映画交流・通訳・翻訳などに尽くした森川和代さん(『山の郵便配達』『上海家族』などの日本語字幕担当)の遺稿を夫の森川忍さんがまとめた<森川和代が生きた旧「満州」、その時代―革命と戦火を駆け抜けた青春期>も紹介している。

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「時を接ぐ」のチラシ 
岸 富美子・石井妙子「満映とわたし」(文藝春秋刊)より 
作=黒川陽子 演出=丹野郁弓
2018年9月26日(水)〜10月7日(日)
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA


私が岸富美子さんのことを知ったのは、2009年、明治学院大学で行われた「第14回 日本映画シンポジウム 日本/ 中国 映画往還」で、岸富美子さんの講演があることを知らせるチラシでした。
森川和代さんをはじめ、内田吐夢監督、加藤泰監督など、戦後、中国に残されて新中国の映画黎明期を支えた映画人がいたというのは知っていましたが、女性編集者でそういう方がいたというのが驚きでした。そしてその講演で、中国だけでなく北朝鮮の映画製作所にまで派遣されていたという話を聞き、数奇な運命、波乱万丈の人生を送った方なんだと知りました。
日本の女性映画編集者のパイオニアとも言える人なのに、日本に帰ってから、日本の映画界では「中国帰りのアカ」というレッテルを貼られ、認められずにいたということに理不尽さを感じました。その後、晩年になって、やっと彼女の仕事が広く認められ、「満映とわたし」という本も出版された時は、ほんとに良かったと思いました。去年(2018)、この本を元にして岸さんの生涯を描いた、劇団民芸の「時を接ぐ」という演劇にも行ってきました。日色ともゑさんが岸さんの若い頃から年をとるまで演じていましたが、演劇を見るのが久しぶりだった私にとって、とっても新鮮な経験でした。実際の映画編集機などを使って、編集作業を教えるシーンなどは、やはり本とは違ってリアルで、とても興味深かったです(暁)。



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2013年06月04日

高野悦子さんお別れの会で、素敵な映画の数々を思い出し感謝 (咲)

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6月3日、今年2月9日に亡くなられた岩波ホール総支配人 高野悦子さんお別れの会に参列してきました。大勢の方が詰めかけ、祭壇の置かれた部屋に入り切れず、私たちは隣の部屋でスクリーンに映し出される祭壇を拝見しながら黙祷。
弔辞を、同じ巳年生まれのご友人、元文部大臣 赤松良子様、映画監督 山田洋次様、映画評論家の佐藤忠男様が述べられました。それぞれに高野悦子さんの映画人生を称えました。ほんとに大きなご功績を残されました。
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続いて、韓国現代舞踊家の金梅子様による死者を送る舞。金梅子様は高野悦子さんの舞の師匠。ポーランドで行われた催しのポスターには、高野さんの踊る姿が。

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懇親会会場には、高野悦子さんがテレビ番組で語る姿を映すスクリーン、人生を振り返る写真、多くの著書、そして岩波ホールで公開された懐かしい映画の数々が紹介されていました。

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高野悦子さんがジェネラルプロデューサーを務めた東京国際女性映画祭の軌跡。
高野悦子さんに直接お会いすることの出来た機会。凛としながらも、大和撫子のしとやかさを感じさせてくれる姿に、こんな女性でありたいと憧れたものでした。(まったく無理ですが・・・)

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一昨年亡くなった母も、岩波ホールにはよく足を運んでいました。
『達磨はなぜ東へ行ったのか』が満席で入れなくて、次の回まで外で待っていたと話していたことを思い出しました。
心に残る映画の数々を紹介してくださった高野悦子さんにほんとうに感謝申しあげます。
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★特別記事にも高野悦子さんの記事があります。どうぞお読みください。
追悼 高野悦子さん
http://www.cinemajournal.net/special/2013/takano/index.html


posted by sakiko at 09:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 追悼 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月17日

三國連太郎さんとの思い出  (咲)

三國連太郎さんご逝去の報に、思えば、これまでに2回お話する機会があったと懐かしく思い出しました。
日本イラン合作映画『風の絨毯』(2002年)で、高山の祭屋台のために絨毯をイランに発注する大旦那役を演じた三國連太郎さん。そのモデルになった飛騨高山の事業家・中山金太さんの功績を描いたドキュメンタリー『平成職人の挑戦』(2004年)では語りを務められたのですが、完成披露試写会の後の懇親会で思い切ってお声をかけてみました。『風の絨毯』の東京国際映画祭上映の折の舞台挨拶の時に、王政時代のイランにいらしたことがあるとおっしゃっていたので、そのことをちょっとお伺いしたかったのです。どんなお話をしてくださったのかは忘れてしまいましたが、その後に「実は、私の父が三國連太郎さんと同じ写真に写ったことがありまして・・・」と申し上げたら、「おや、そうですか」と、釣りバカ日誌のスーさんさながらの優しいまなざしをいただきました。
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『風の絨毯』舞台挨拶 2002年10月29日

次にお話したのは、前述の中山金太さんの一代記「わしゃ、世界の金太!〜平成の大成功者と5人の父〜」(高山秀実著・毎日新聞社発行)の出版を祝う会の時のことでした。
その時のお祝いの言葉がとても素敵だったのを思い出し、スタッフ日記を探してみたら、ちゃんと書いていました。
という次第で、2006年9月第5週のスタッフ日記から引用です。
「益田さんという楊貴妃のような女性に騙されて、金太さんを紹介され、 映画に出ろと言われたんです。私、実は出演料高いんです。その100分の1位の額を言われ、さて、何の縁もないのに・・・と思いながら、金太さんとお付き合いしている内に、こんなお話を聞きました。 地質学者の方が、飛騨高山では温泉は出ないというのに、どうしても温泉を掘り当てたい。 3本同時に掘って、1970m掘ったところで、ついに温泉が出たのですが、 金太さんは、あと39m掘って欲しいと。なぜ?とお伺いしたら、サンキューベリーマッチだと。 自分の生き様を大事にしていらっしゃる方だなぁと感じて、 ささやかな出演料でも出てよかったなぁと・・・」
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三國連太郎さんと楊貴妃のような益田祐美子さん
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三國連太郎さんと金太さんご夫妻
金太さんも、その後、まもなく天国に召されました。きっとあちらの世界で三國連太郎さんを暖かくお出迎えされていることでしょう。 
ご冥福をお祈りもうしあげます。合掌
posted by sakiko at 19:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 追悼 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする